しばらくこのままでお待ち下さい        惑星放送少佐

(初出:第81号 04.1.20)

久々に書くテレビ評、のっけから昨年の話で「恐縮です」。年末から書きはじめているもので..ご容赦を。さて。夢路いとしが亡くなった。フジの新春「爆笑ヒットパレード」が私の観た最後の舞台。合間のつなぎトークは確かに限界が見えているが、こうしてみると有難い番組だ。ベテランの芸は年末年始しかお目にかかる機会が無くなってしまったが、最近若手のお笑いはテレビで見ることが多くなってきてうれしく思う。00年「M−1」以降、お笑いブーム再々々..燃だそうだ。個人的にもここ数年は新しい芸人を覚えることが多くなった。
「エンタの神様」は土曜22時。新進の芸人を数多く見せてくれているが、ネタ中のカット(編集)が多すぎて不満である。「笑いのクリスマス」。コサキン司会の若手特集は人選が幅広く、実力派だけでなくフリークスに近いような芸人も出すので超好み。だが..ここでも、ネタがブツ切れていた。「爆笑オンエアバトル」は投票の結果上位5組しかオンエアされない。だがこの「放送されない」とは訳が違う。ネタそのものを「編集」されるのだから。いわゆる「いいとこ取り」は近年益々あざとくなり、ほとんどダイジェストの様相を呈していて、虚像を観ているが如きだ。時代の潮流かも知れないが、個人的には出掃けまで含めて見たい。合間の社交辞令的トークをカットされるのは構わない。むしろその点で、個人的には生放送よりも編集込みの(録画)放送を望んでいるのだが..。
「芸人は私生活も含めて芸」。いとしは入院をひた隠しにしたそうだ。ネタ見せ番組、つまり公の場、晴れの舞台で若手は、一挙手一投足を切り刻まれる。テレビは芸人のフィールドだが、芸人を育てる環境は無い。と、テレビ視聴オンリーの私が偉そうに言える話ではない。

「バレーボールワールドカップ」は4年に一度、必ず日本で行われる。何故各国持ち回り開催ではないのかというと、第一回大会を日本でやったら大成功だったので、以後も日本で..ということらしい。勝てばオリンピック出場という特典があるが、常勝日本の面影はもはやなく..。今は出るかどうかで一喜一憂。女子は善戦が続き、それなりに楽しむことが出来た。しかしこの強さ、チームのレベル向上もさることながら大声援がもたらしたもののように感じる。バレーボールは確か、微妙な判定にはVTRを使うはずだから、ホームが断然有利ということはない。が、それでも観客がサポーター化してきたので他国は大いに悪影響を受けたはずだ(対してさすが男子は動ぜず?世界ランク通りの結果になった..)。次回辺り、日本開催を嫌がる国も出てきそうな気がする。開催国が移動したとして、果たしてアウェーにて、日本が今年のような躍進を遂げるかどうか..。オリンピックへの道はまだまだ険しそうである。

遠い昔はセピア色の思い出〜と、適当ながら歌にありそうな話。生まれた頃を単色でイメージすることはないと思うが、戦前ともなれば自然と白黒、あるいはセピア色の世界と考えてしまう方が多いのではないか。それは資料が全てそうだから。といっても例えば時代劇を我々は江戸時代の再現として見ているわけで、当り前だが色の有ることくらい分かっている。それでも、「昔」=「薄暗い」と感じてしまっていると思う。百聞は一見にしかず。カラー映像で見れば、今も昔も青い空に白い雲。着物は艶やかで、日本人は紛れもなく黄色人種であった。タイトルは失念してしまったが、NHK「映像の世紀」シリーズの特別編。昭和初期に写されたカラー映像にはまさに「目から鱗」だった。

「いやぁ〜、映画って、本ッ当にいいものですネ。」この言葉を去年のベストとして「タクシー2」に贈りたい。勿論昨年公開は「3」である。映画館での鑑賞は、ぶっちゃけて言うと今世紀一度も無い。ただ映画を観ないのではなくて、実に受け身ながら、テレビでやれば観ることもある。何を観たか思い起こしてみると、昨年前半は図書館にてのビデオ鑑賞を定期的に行っていた。レンタルで一時ハマっていた黒沢映画を久し振りに観て(「隠し砦の三悪人」)、再燃しそうでし損ねた(非常に感銘を受けたのだが)。そうだ、「どら○太」を観てテンション下がったんだった(黒沢と関係ないネ)。香港映画など、本誌執筆者諸氏が挙げた(勧められた)作品も観ることなく..私は同時性を重んじるようで、条件が整わないと腰が極めて重い。そうなると、嫌でも毎週やっているテレビ放映を観ることが多くなる。「千と千尋の神隠し」は難解と聞いていたがそうでも無かった。「地獄の黙示録・完全版」は難解だった。良く分からない点がいくつかある。「マトリックス」は主人公の言動がどうにも勘に障り30分で止めた。同じ理由でアニメ「十二国記」も1話限り。閑話休題。単純に好みの問題。

お笑いに関してもう一言。一時代を築いたバラエティ番組は常に「反道徳的」な内容が世論には叩かれ、若い世代には支持されてきた(テレビ放映開始から50年だった昨年、このメディアの趨勢を眺める機会に恵まれたお陰で巨視的な前フリ)。クレイジー、巨泉・前武、ドリフ、たけし・さんま、とんねるず、ダウンタウンetc...に代表される番組がそうだ。近年ではナイナイが、時に1年を掛けた壮大で完成度の高い「ドキュメント〜ドッキリ〜バラエティ」を作り上げている。そして今、ポスト「メチャイケ」を目指し様々な深夜バラエティ番組がしのぎを削っている。若い感性を持ち合わせないのか..私には共感を覚えるものが少ない。個々のグループは評価するが番組のネタは今サンの印象である。と、悲観的に観てもしょうがない。今イチ押しは月曜深夜の「ロバート・ホール」。いい意味でキャラクターの固まった中堅どころを中心に、毎回ゲスト芸人を迎えて飽きのこない内容を提供している..と、昨年まではそうだった。年明けて、曜日変更とともにさまぁ〜ずを加えて固定メンバーでのネタに終始しそうだ。さまぁ〜ず大歓迎だが、ゲストありきで構成されていた番組のパワーバランスが危うくなりそうだ。そう、つまり今の深夜番組に乗り切れないのは番組自体(作家、プロデューサー)の力量不足というより、メンバーにリーダー的存在が見当たらないからなのである。順調に売れ出しているのに上田以外の3人(おぎやはぎ、くりーむしちゅー有田)が本番前いつもネガティブな言動ばかりする、「四MEN楚歌」のような芸人が多い(気がする)。そうしてみるとどちらも「俺の方がおもろいで」と競うようにボケまくる漫才コンビ、笑い飯のギラギラしたテンションが魅力的だ。昨年の「M−1」、ネタの順番が逆だったら優勝してたのに..と思う。彼等がもう1年桧舞台に上がれないとしたら、ポスト「メチャイケ」は出現をさらに待たなければならない。(笑い飯にリーダー的素養はないか?)

炬燵のある部屋にビデオが無いので、平日の休日の昼間はワイドショーを流しっ放し(困ッタモンダ)。さて、「ギャル語」をご存じだろうか。チョベリバ、ガン黒など、女子高生が生んだ「新すぃ日本語」のことを言う(上の例えは古いか)。「新すぃ日本語」。思わず使ってしまったが、深夜番組のタイトルである。「トリビアの泉」が人気を博しているように、また4コマでも述べたが、今や「投稿」は各メディアの主軸と言っても過言ではない。この番組も視聴者が投稿した新しい言葉を、若手芸人がコント仕立てで実際に使ってみるという、なかなかに興味深い番組である(うちの地域では時間的に「水曜どうでしょう」と被っているのでマトモに見られないのが難点)。ただこちらの新語はいわゆる造語で、実際に使われているものではない。一方ギャル語は日常で使われる会話語?である。
ワイドショーの取り上げ方は興味本位とはいえ乱れた日本語を嘆くお決まりのパターン。そのテレビこそが、難解な業界語を操る代表格なのだからおかしな話。当人同士でコミニュケーションが出来る言葉であることに変わりはないのだが。少し昔を見ても、方言は地方で通用する言語で、東京にすら江戸弁があった。「おやおや阿藤さん、また道草ですか〜?」と、ペラ助のナレーションでお馴染みの「各駅停車の旅」で、江戸っ子の職人さんが「(鋸を)シくのにコツがある」と言うのを、タレントが字面通り受け取って、戸惑っていた。江戸っ子は(頭の)「ひ」と「し」を逆に発音する。それを知っていれば何の事はない。これなど、ギャル語を聞いてトンチンカンな解釈をする我々と同じ様な図式と言える。方言をしゃべる人に眉をひそめる事はあるまい。標準語は、どこでも通用する日本語というだけのことで、決して絶対的なものではないはず。いずれにせよ、放っておけば自然に淘汰されて、本当に使える言葉だけが「新すぃ日本語」となっていくのだろう。試みに先のワイドショーで見たギャル語の実例を挙げようと思ったのだが...すでに忘却の彼方である。その程度のものだ。
他方、美しい日本語が忘れられていっているのも確かである。若者はそれを知らないから新しい言葉を「作って」伝えようとする。ボキャブラリーが貧困だから、勢いそれは品の無い言語となる。話は飛ぶが、ユニクロのCMはセンスがいい。最近流れているカラータートルのCMは、50色という品揃えを売りにしていて、次々にそれを見せる。紹介する色の名は、和洋様々。聞き覚えのない色名が、しかし映像と共に強烈に頭に残る。とにかく使うことだ。使わなければ美しかろうが下品だろうが消え去るのみ、である。



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