作品には必ず何らかのメッセージ(創意)が込められており、折りよく(運良く、機会よく)読者がそれをすんなりと理解できる状況にあった場合、感動が生まれる。私も何度となく経験している。
大学を卒業して、周囲の環境が少々変わってきた。学生という身分から社会人となって、無職である私に対して、見下した言葉と態度でもって接する人もいる。今まで私が形成してきた関係は、その点に関してほとんど無関心な人々であったから、何かがひっかかる。実際私も自分が経験しえぬ事柄に関しては、世間様のいわゆる常識に基づいた考え方に囚われてしまっている、というのを知っているから反発は生まれない。が、それにしても言い方があるだろうに..と、この有言のプレッシャーにはいささか弱っている。
去年本を少々売った訳だが、当然?ながら買い直した作品もすでにある。手放してしまえば読みたい時に本が無し。後悔先に立たずとはよくいったもんで...。なおも部屋を著しく占拠している本を、今度は里子に出すことにした。独り暮らしでヒマ(と、部屋のスペース)を持て余している友達に、とりあえず200冊ほど。今のところ双方に有益なものと、なっている。
さて、いうところの「枕」を3題、挙げてみた。物書きならばここから別個の話を3つ、展開させていく訳だが、贅沢にもこの3つの枕を元に、作品を一つ紹介したい。
山田南平の「紅茶王子」という作品。作者の作品を、私はデビュー当時から追っている訳で、前の作品(久美子&真吾シリーズ)についてはすでに紹介した。本作は長編2作目となる。当初、これはキャラものであろうとほとんどノーチェックだった。作者の画力について関心が無かったからだ。単行本も初巻のみで、売ってしまった。しかしすでに連載開始から3年。評判もいい。で、買い直した訳である。単行本2巻に、こんな話が収録されている。
紅茶というのはなかなかに奥の深いもので(日本茶にも「茶道」があるように..当然ではある)、少し凝ってみると色々と「適した」飲み方があることを知る。常道、邪道といった概念も出来ており、実際に自分が飲んでみて美味しいかまずいか、といった基本的な感覚が捨て置かれ、本に書いてあったから、店の人が言っていたから、などという少々短絡的な概念が絶対視されることもある。
今は亡き父親(紅茶専門店経営)に、「こうしたらおいしくない」という紅茶の入れ方を教わらなかった主人公。後輩に「紅茶に対するポリシーがない」と言われてしまう。自分の紅茶の入れ方が分からなくなった主人公に、店を継いだ叔父(父の弟)が言う。「アールグレイをホットで飲むのはマズイ」・・っていうのを他の人にも押し付けるのが(その後輩の)紅茶に対するポリシーなのか。君の父親は「どんな誰にもおいしく飲んでもらいたい」っていう気持ちが唯一の主義だった、と。
(セリフ引用:山田南平「紅茶王子」TSP.8「パパの紅茶」より。単行本(白泉社)2巻P74〜75)
他人に対するスタンスも、これが理想に思える。私にとって至言である。
詳しくは読んでみて下さい。