タカハシの目 第14回

(初出:第21号 98.12.20)

今回は極短い。
さて。世間様は不景気と騒いでいても、若年リーマンにとってはそれでも普段よりは多少実入りが良い年の瀬。何より安い資金で飲むことなどここ2、3年で鍛えられているから、当然金が入れば飲みまくる、ということになる。馴染みの居酒屋でいつもの友と飲むのは毎晩でも厭わない。
滝田ゆうの「泥鰌庵徒然話」(注1)は、作者の実録酔態記といった作品。新宿ゴールデン街を中心に、東京の昔からの飲み屋街の様子が(人々も含め)細かに描写されている。高い店に行くことも、豪勢に飲み食いすることもなく。とにかく酒があればよし。おとっつお父っつあんの飲み方だが、この日常にはとても魅かれる。ようになった。
そして生活はつげ義春の「無能の人・日の戯れ」(注2)である。これらの作品はすでに一読している(注3)が、今回はちょうど権藤晋の「つげ義春幻想紀行」(注4)を枕に読んだこともあって、また一段と趣深く読めた。貧乏というのは、確かにつらいし、ミジメである。実際、作品中でもそれは決して美しく描写されてはいない。しかしやはり実に魅力的である。「井月も山井も大馬鹿ものだよ・・・・」(注5)とは、作者の本音か憧れの裏返しか。そしてそれを読む自分にとっても、このセリフは警句か甘言か...。
すでに正統に評価の定まった作品は、どうしても構えて読んでしまいがちである。もちろん名作だとはいつ読んでもそう思う。しかし本当にしみじみと感じいることが出来るのは、自分にその作品世界を理解するだけの経験が備わってからのように思える。そして正にその瞬間に、ドンピシャの作品に出会え、読めることは至福ではなかろうか。

(注1)ちくま文庫刊。上下2巻本。
(注2)新潮文庫刊。
(注3)(注2)で触れたように、今回は文庫版を挙げた。だいぶ前の話になるが、私は暗に文庫版を否定したことがある。コンパクトになって再販されるというのを手放しで喜ぶことに抵抗があったからだ。大判で「見る」ということに多少こだわりがあったこともある。しかし読みたい時に読める方法に優るものはないのではないか。稀少本を苦労して入手する喜びは、作品を読む喜びと必ずしも同義ではないように思える。従って今号記事を持って文庫版への批判は撤回させて頂く。
(注4)立風書房刊。著者=高野慎三は「ガロ」の編集者として数々のつげ作品を担当した。
(注5)「無能の人」最終?話ラストのセリフ。



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