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狂気について 二月一日深夜
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人間は平穏な日常の中に数々の狂気の起伏を持ち合わせているらしい。更にこ
の狂気なしには人間は生きてはいけないと何かの本はいった。それは僕達の年齢
では酒、恋、金などが主なものであるが、勿論様々なものが考えられる。僕の精
神は健康であれば不健康を望み、不健康であれば健康を切願する。そもそも正気
と狂気の境目などは分からないが、現在僕は狂気に陥っていると自覚している。
この自覚が無ければ僕は何と呼ばれることだろう。
一ヵ月前ではあるが、今までの長い年月を共有した女性が今後の人生での僕と
の同伴を拒んだ。更に、今後は友人という確かな地位にいて欲しいと懇願され
た。それは十分可能な確率を有していたのを僕は以前から知っていたし。了解の
意を示した。然しここで理論と感情の擦れ、及び肉体的欲求の抑制からくる不条
理な精神状態に陥ることになった。そのとき僕に狂気が起きた。
僕は狂気は大きい程、他人に見せるべきものではないと思う。理由は精神の崩
壊を悟られまいかといった、防衛行動によるということ。それから同年代の考え
が自分より優れているはずが無いといった、盲目的達観も一つ。そして人間の
エネルギーは有限であるのでいつかはこの狂気は冷めるだろうと考えた。しかし
彼女は狂気を誰かに見せたらしい。なんと人前で素直に泣けるのだ。この作業に
より狂気からの回復は僕よりもずっと早い。彼女には時間も無ければ、僕の感情
を理解する意欲もない筈だとそのとき狂気に駆られた僕は判断した。
彼女の時間の流れはとても早く感情の変化に十分である、また、僕の時間の流
れは緩やかで、狂気を取り払う余裕が無い。格差を感じた。もう彼女に笑顔を見
せることが出来なくなっていた。この瞬間に己の器量を知る。笑顔はお互いの狂
気を癒し得るというのに。勿論、僕と彼女は精神構造も生活環境もなにもかもが
違うのだが。それによって、彼女は僕に気を使うようになる。無意識に慈愛の連
絡をよこしてくる。僕はそのことを良しとしない。そのためにまた笑顔が作れな
い。この様な堂々巡りが起こってしまうのである。一体僕の現在の狂気は嫉妬で
あろうか、それとも失望感であろうか。子供のころの自慢の宝物が他人に取られ
た気分に似ている。
やはり、人間の精神エネルギーの限界による感情への冷却効果を期待したい。
何時かは彼女の希望に十分答えられるだろう。
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狂気の行方 二月三日深夜
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とうとう僕の嫉妬に駆られた陳腐な精神状態を彼女に吐露した。この時僕の体
は高揚し、全身で血液の流脈を感じた。確かに不快な時間ではあったが、僕はこ
の時を待っていたのかも知れない。こころの底にわずかな達成感があったから
だ。そして、意識的にか無意識的にかは判らないが、僕は彼女に涙を流させた。
そのときはあまりに頭がぼうっとしていたので情けを感じたのは少しばかりであ
り、不思議に大きなわだかまりが(和らいだといった気分ではないのだが)消滅
した。人間の残虐性を意識しながら、これはきっと屈折した僕の愛情を示すものか
もしれないと考えた。そして、未だに未練があることや嫉妬を感じることを露に
することが自分でも滑稽であり、またこの告白は大変申し訳なく思っていること
も説明した。これは良く言えた義理だ。彼女も僕に何かを述べたが、やはり頭が
ぼうっとしていたためにあまり覚えてはいない。確か以下のようなことだと思わ
れる。
僕の気持ちを分かっていなかったこと、現在は既に恋人がいること、し かし未だに僕のことも好きでいてくれていること、将来また僕とやり直したいこ
と、自分では日常のリズムを決めることが出来ないこと、それによって僕との擦
れ違いが起きたことである。更に僕の考えにことごとく納得した素振りも見せて
くれた。彼女の理屈に返す言葉はあまりなかったが、僕の感情は確実に変化し
た。一刻の二人の会話によって、僕は少しだけ諦めと安心感を覚えたのだ。どう
も馬鹿馬鹿しくなった。嫉妬に駆られた自分が情けなくなった。一人芝居とはこ
のことなのだろう。そしてその瞬間に僕にかけられていた呪縛はとけた。彼女に
対する嫌悪感情などからも解放された。なぜか愛しさだけはそのまま残された。
今日はやっと彼女に笑うことが出来た。最後に僕は心境の変化と感謝の意を述
べ、彼女に接吻し、別れた。
僕は一体何をしたかったのか、何を知りたかったのか正確なところは判らない。
しかし、少しだけの寂しさは以前の胸を掻きむしる気持ちに比べてずっと気持ち
が良いのは確かだ。今、僕にとって現在の最も厄介であった僕自身の狂気は冷め
ようとしている。またはそのように感じている。通常なら暫くはお互いに休息を
取ることになる。しかし、僕は直ぐにまた彼女と会うことにした。このところ緊
迫した雰囲気での会話しか交していないため後味の悪い状態が続いたからだ。電
話の向こうでの彼女の声にわずかに戸惑いが看られたが、現在の僕はあまり気に
しなくなっていた。次に会えばお互いが楽しく過ごせると錯覚したのかもしれな
い。
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狂気の呪縛 四月一日深夜
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アノトキ、ボクハ、サラニオオキナ狂気ニトラワレルコトナド、スコシモ、カ
ンガエナカッタ。