夏のあがきが降り注ぐ日曜の昼下がり。私とナオミは出遅れた休日を取り戻そうと、奥松島のとあるビーチにやってきた。
そこではカエルの母さんが浜辺で一番の笑顔を振り撒いて、おおらかな泳ぎを披露してくれていた。
肌の浅黒い、肥満の地元っ子がシュノーケルのついた海中マスクを額にのせ、砂山を拵えている。その後ろでは身体のラインを誤魔化した水着の三人娘が、互いの手を握りしめ、深場へと怖ずおずアプローチを試みている。(クラブで男をひっかけるときの勢いはどうしたのだろう?)
そして、そのまた奥で首まで海水に浸かり、奔放に泳ぎの技術向上を図っているのがカエルの母さんだ。
私はとりの唐揚げとイカ下足揚げに食らいつき、健全な肉体を維持せんと、ビール代わりのスポーツ飲料水でそれらを胃に流しこむ。そして「無邪気な母さんだ」と溜め息まじりにひとりごちるのだった。
ゲコグリーンのワンピース水着の隣で、白い素肌に付け焼き刃的なインディゴブルーのビキニ姿の娘に、男が塩水を浴びせかけている。不十分な夏の思い出を満たそうと躍起なのだろう。
「あのお母さん、カワイイ」ナオミがいう。「どうしてあんなに一生懸命なのかしら?」
「本能だよ。自分のルーツを確認してるんだな。やっぱりカエルは陸よりも水辺が好きなんだよ」そういって私が遠巻きに母さんガエルを見やるとナオミはくすりと笑った。いつもなら幼児を戒める母親のごとき形相で、そんなこというんじゃありません、と睨みつけてくるはずなのに、『カエルの母さん』というネーミングすら気に入った様子である。
「お玉杓子は居ないのかしらん?」
どうでもよさそうにナオミがいう。
「旦那だけみたいだね」
「うん。あのお父さんも素敵っ」
ナオミが一瞥くれたその先には、私達と同じく路肩と砂浜の区切りに腰を下ろした父さんガエルが見える。
彼は濃紺のポロシャツを着崩して、ハーフパンツにサンダルという出で立ちで、つがいの片割れを見守っていた。
泳ぎを小休止し、陸に戻ってきた母さんの後ろ姿をカエルパパは黙って見つめる。その胸中に去来するものはいったいなんだ?
1.「母さんも年取ったなあ」
2.「今晩あたり一丁いきますか?」
3.「ウエストはどこだ?」
...。どれも違う。
きっとカエルパパはこう思ったのだ。「カエルみたいやなあ」と。
気づけば、またひとりぼっちで父さんは、意気揚々と泳ぎつづける母さんガエルを眺めてる。「幸せそうだね、母さん」とどこか他人行儀な微笑みをたくわえて。「謳歌するがいい。僕のカエルちゃんよ−」
私は残暑が厳しくなるのではないかと不安をよぎらせていた。海水浴場からひと気が失せ、海水が秋色に濁っても、夏の忘れ形見の日差しだけは容赦なく照りつけるのだ。
「見て見て!」ナオミが突如、小さく指をさす。見るとカエルの母さんが遥か彼方の防波堤を歩いてる。
オニヤンマ(トンボ)を追い立てるおさなごみたくペタペタと、しかし軽やかな歩調で。
カエルの父さんはそれを気に留めつつも、防波堤の手前に佇んでいた。その背中には、哀愁と心なしの疲労が漂っている。
「気の毒に。呆れてるよ、あの父ちゃん」目を細めて私はいった。
「違うわよ。お父さんは嬉しいのよ。だってカエルの母さんはあんなに楽しんでるんだもの」きっと彼女のいうとおりなのだろう。
パラソルが閉じられ、浜辺に物悲しさが襲う。それでも子供たちの絵日記には、夏らしい景色が広がるに違いない。そして、私とナオミの心にも、カエル夫婦のイノセントラヴな風景が刻み込まれるのだった。