気が触れた小鳥たちのように 第7回

(初出:第71号 03.3.24)

リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』から詩を抜粋して野上(詩人であり友人)の会社にメールを送ってやった。わたし達は度々、仕事中にもかかわらず意見交換や仕事の愚痴や詩をやり取りしている。詩はほとんどが自作で野上から送ってくる方が圧倒的に多い。この日、わたしはブローティガンのお気に入りの詩を興してただ無意味に送ってみたのだった。ところが、この詩を私が書いたものと錯覚した彼は、自信を喪失したのか「筆を折る」と言い出したのだ。18歳から書きつづけている男がそういうのだ。だがわたしは面白がるでもなく、先に送ったブローティガンの詩を「オレが書いたものではない」と否定しなかった。
なぜなら詩人には自己喪失が必要だからだ。
  『わたしが誰か、あなたは知りたいと思っていることだろう。わたしはきまった名前を持たない人間のひとりだ。あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前だ。
  『たとえば、ずっと昔に起こったことについて考えていたとする。誰かがあなたに質問をしたのだけれど、あなたはなんと答えてよいかわからなかった。それがわたしの名前だ。そう、もしかしたら、その時はひどい雨降りだったかもしれない。それがわたしの名前だ。
  『もしかしたら、子供のときした遊びのこととか、あるいは歳をとってから窓辺の椅子に腰掛けていたら、ふと心に浮かんだことであるとか。それがわたしの名前だ。それとも、あなたはどこかまで歩いていったのだ。それがわたしの名前だ。あるいは、あなたはじっと覗きこむようにして、川を見つめていたかもしれない。あなたを愛していた誰かが、すぐそばにいた。あなたに触れようとしていた。
触れられるまえに、あなたにはもうその感じがわかった。そして、それから、あなたに触れた。それがわたしの名前だ』

(リチャード・ブローディガン『西瓜糖の日々』より抜粋)
ただ、野上からきていたメールは朝から攻撃的であり自棄的でもあった。わたしが出演、プロデュースしている「ラジオ3」の番組『カントリー・ミュージック・コンフォード』の批判(というよりわたしの喋りがラジオ映えしない声で、どもっていてひどいという個人を中傷するもの)であったり、詩なのか、仕事なのか、人生そのもののことなのかは不明だが、なにかを辞めるという内容のことが書いてあった。30歳を目前にし我に返ったという風な文章だった。一言で表現するなら「いち抜けた」である。あるいは「お前ら勝手にいつまでもやっていろ」という感じ。
「マジ意識が無くなりそうなので帰る」という17時18分のメールを最後に消息は跡絶えた。「拳が血でにじむ」(何事か、オフィスを飛びだし、トイレの壁に強烈なのを喰らわしたのだろう)と書いてよこしたのは、その日の昼だった。日常茶飯事と思いきや...。
心配はしていない。ただ生気を吸いとられるだけの職場において、彼からの『お言葉』が届かないのが寂しい。それだけである。
『黄色い灯りのなかで、我は詩人ごっこ
 灰色の幻のなかで、友は、詩人だった
 いっぱしの。
 本質を見抜く、我らの代弁者。
 朽ち果てた世の、行き止まりの町で野垂れ死ね』



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