★欧州サッカークラブ王者選手権の準決勝は、奇しくもイタリア勢同士の対決が実現した。ともにミラノのサンシーロスタジアムを本拠とするACミランとインターミラノの激突は、互いに譲らず、ホームとアウェイの2戦を終えて「一対一」のドロー。しかし同得点の場合は、アウェイでの得点が二倍になるため、ACミランが決勝戦に進出したのであった。(相手はユベントス。またまたイタリア勢同士の争いとなる)
★この試合をテレビで観戦したが、ふと気づくことがあった。六、七万(八万だったか?)の大観衆が詰め掛けたスタジアムにおいて、試合中に立ち歩いて通路を塞ぐなどという光景は皆無。サッカーを観にきているのだから、当然といえば当然の話なのだが、これが日本、しかも地元のベガルタ仙台の本拠地、仙台スタジアムはというと事情が違うのである。
★まず試合が始まっても一部区域を除き、ほとんどの通路には働きアリのような行列が事欠かない。トイレ、携帯電話、おやつの買出し、子供の育児・・・。なんとかならないものか。こちらとしては、行き交う黒山の隙間からサブリミナル効果のごとく、試合をチラリチラリと眺める感じ。生観戦にきてるのに決定的シーンを見逃すことも多々ある。そういう事もあり、私は年間パスポートの継続権利を放棄し、今シーズンのベガルタ仙台の試合はテレビ観戦と決め込んでいる。
★家族連れの客層が多い仙台スタジアム。それに文句はないが、来ている者がすべてサッカー(ベガルタ)信者かという疑念が常につきまとう。それについてとやかくいうつもりはない。
ただ、イタリアのスタジアムには純粋にサッカーを観に来た客しかいない。彼らは2時間、サッカーのゲームに集中する。トイレは試合前に済ませるか、試合後まで我慢。子供はあまりいない。金銭的な問題か、治安的な問題か、家で見る決まりになっているのだろうか・・・。
そうして、小腹が空いたらどうする。我慢だ。だってサンシーロスタジアムの試合終了後の雰囲気を見ればわかるのだ。みんな試合後にサッカーを肴に食事会(飲み会)があるので、さぁ〜て、といった感じでスタジアムに佇んでいる。彼らはサッカーも愉しむし、食事も愉しむ。十分に。そしてそれは人生を愉しんでいることに繋がるのだ。日本人はあまりにも辛抱が足りずに傲慢知己になっているか、行き過ぎた合理主義に洗脳されて一度に複数の物事をこなそうとし過ぎなのではないか。
★元F1レーサーの片山右京がイタリアのスタッフと仕事を共にしたとき、イタリア人は12時になると作業をやめて、さっさと食事をとりにいく。それを見た片山右京は、そんな生ぬるいことではF1は勝てないんだよ、と怒ったそうだが、イタリア人からすると「俺らはF1も一生懸命だが、その前に人生を一生懸命愉しんでいるんだよ」となる。間もなくして、昼の12時になるとイタリアチームのランチタイムには、笑みをもらして団欒中の片山右京の姿があった。
★つまり私は、日本人はスポーツ文化後進国であり、人間としての生き方というか、民意が低レベルな民族だといっているのだ。もしくは高いレベルにあったものを自ら壊して歩いている。そう思うのだ。メジャーリーグ。ニューヨークヤンキースとシアトルマリナーズの対戦には、松井やイチロー見たさにたくさんの日本人ファンもスタジアムに足を運んでいた。ところが、客席の日本人ファンを捉えた映像には、日本人が試合中にも関わらず、記念写真撮影に興じている姿が映し出されていた。プレー中の試合では松井が安打で二塁まで出塁し、一打でればホームを狙えるというシチュエーションだった。しかし、日本人の観客は、松井の走力やイチローの守備には関心がない様子だ。ただ打ってヒットのひとつでも見れれば満足で、ベースボールを愉しもうとは思っていないのだ。「俺は松井のヒットを見てきた」「綺麗なスタジアムに行って来た」という実績、証拠つくりにしか頭が働かない。
★私は仙台スタジアムへは、まずサッカーの試合を、ベガルタ仙台の戦いぶりを観に行っていたのであって、見知らぬ他人の横顔を拝みに来たわけではない。あんな糞ったれな場所へ足を向けるほど私は暇人ではないのだ。日本代表の試合を観てればわかる。サポーターの誰ひとり(言い過ぎか・・・)としてサッカーを理解していない。勝たなくてはならない状況なのに、選手をサポートせずに、能天気に「アイーダ」を合唱している輩達。お笑い種だ。しまいにはどんな試合にでも拍手を惜しまない。「頑張った、頑張った」だ。頑張るというのは、全力を尽くせば失敗しても仕方がないというニュアンスを含む言葉だ。プロなら負けは許されないのに。しかも選手達は全力を出しきってはいやしないのに。だれも気づかないんだよな、アイーダを歌ってる奴等は。ぷぷぷ。もういい。勝手にしてくれ。おやすみなさい。