気が触れた小鳥とりたちのように 第6回

(初出:第70号 03.2.20)

ケンジが命令する。まるでボブ・ウィルスのようだ。
ボブ・ウィルスはテキサスのウェスタン・スウィング歌手のことだ。彼はテキサス・プレイボーイズというバンドを従えていた。ボブはリハーサルが終ると本番前に一言だけこういう。「顔は笑顔であとは狂ったように弾け」と。スティール・ギタリストは魔法の演奏をしたが、呑み助が小娘をからかうような表情をうかべていた。
ケンジが命令を下す。命令は絶対だ。わたしは3メートル下に広がる白銀の畑を見下ろす。白銀の新雪の下は、ほうれん草やながねぎの世界だったから、わたしは躊躇した。もし、あのふわふわした冬の代名詞が、綿ぼこりほどの、見せかけだけのちっとも暖かくない純白のセーターだったら。わたしの口は黒い土で塞がれ、尻にはながねぎ刺さっていることだろう。そうしたらケンジはわたしを風呂に入れ、擦り傷を消毒し、みかんを剥いてくれるのだろうか。いや、わたしが望むのはそうではなく、ヒロちゃんやタカちゃんの脳裏に刻まれた犬死の儀式を記憶から消し去り、ふたたびテニスボール野球に誘ってくれるように仕向けてくれることだ。
ケンジが急かす。促す。ヒロちゃんもタカちゃんもわたしに飛んで欲しそうだった。いずれにしても彼らはわたしがいかにして犬死して見せるのか、それだけを見たがっているふうだった。プロセスも重要だった。怖気づいたダイブは腰がひけるから、おっ立ったナニを誤魔化しているような印象を与えるだろう。顔は手でガードすればいいが目は閉じたままだからガードするタイミングなどあったものではない。胸のあたりでキリストを乞う手つきでいるから顔と同時に胸も強打する。滑稽な意気地のないダイブとその破滅のシーンのあとには苦痛に歪んだ九歳児の息を殺さざるを得ない嗚咽をきくことになるだろう。そうはいくか。
わたしはルチャドールだ。馬場や猪木、ハンセン、ブロディでもなければファンクス、ハルク・ホーガンでもない。空中殺法得意な覆面を被ったメキシカン・レスラーだ。弟だからミル・マスカラスでなく、ドス・カラスをイメージした。開始のゴングは鳴っている。矢は放たれたのだ。カウントダウンまで始った。わたしは犬死など御免だった。犬死は意味のない無駄な死だと聞かされていたからだ。
「行けっ」わたし以外の三人が同時にいった。
わたしは臆病さを悟られぬように微調整をした。ただし確実に観衆に伝わる形で。そのままダイブはせず、30センチ以上ジャンプしてそのぶんの余計な滞空時間を稼ぎ出した。両腕はしっかり大の字に開き、両膝は折り曲げ90度を保つ。目は見開き孤高の鷹のような威厳を漂わせた。ただし完璧な芸術は追求せずに、どこかに笑いを感じさせるようでなくてはならない。山頂からわたしを見下ろすアルピニスト達は、感動よりも笑いを求めているに違いなかった。3メートルプラス30センチの半分は覆面レスラーの心意気を。残り半分では内に秘めた人間性が判断される。わたしはアドリブで犬掻き泳ぎをした。もちろん足も動かしたはずだが、手の回転よりは脳からの指令が遅れたようだった。その対応の悪さが笑いを生むものだと信じたい。
痛くはなかった。まったく。全然だ。一人の犠牲者もなく北極点にたどり着いた隊長だ。口には黒土ではなく不純物なしの雪の結晶が溶けた。わたしは歓声をあげる三人には目もくれず、ふたたび山頂を目指した。まもなく3メートル上空の頂きまで達すると「どうだった」と尋ねられる――だれに声をかけられたかは覚えていない――のを無視して背面から落下してみせた(最初にうけた衝撃は美化されやすいから、より高度な技を魅せなければならなかった)。
三度、わたしが山頂を目指そうとするときには、まだカジられてないふわふわの肉饅頭を求め、ケンジとヒロちゃんとタカちゃんが後追い自殺のごとくダイブする姿があった。わたしは毒見に成功したのだ。通過儀礼といってもよい。これでわたしは、春にバットとグラブを握り締め、グラウンドに駆けていく資格を得たのだった。



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