自分のなかで著しくカントリー音楽が衰退していくのを感じている。こころに響かなくなった。わたしが夢中になりだした十年前にもカントリー音楽は多種多様な性格をみせていたから、カントリーといっても飽きることはまったくなかった。ところがあまりにボーダーレス化した現在――あらゆる音楽との融合や挑戦、実験という意味ではなく――かといって伝統を守るだの真髄を極めるわけでもない――ただのポップミュージックに成り下がり、大衆化の意味を履き違え、音楽を産業・ビジネスの手段としてやり繰りしてしまったつけがまわってきたというわけだ。まわりまわってそのつけは、熱心な消費者に当てつけられることになる。ここでいう熱心なというのはメディアから垂れ流される情報に惑わされることなく、自分のスタイルと意志で音楽を欲するもののことであり、演歌だからダサイとか、この歌をしらないと嫌われるとか、ましてジーンズにハットとブーツを揃えてなければ、カントリーを聴いてはいけないなどと勝手な決め事をしない人たちのことである。
どこそこの畑の野菜がうまいと聞いても、無関心でしかなかった町の住人も、あちこちの親戚や恋人や友人もが噂するうちに気が気でなくなってくる。そうこうしているうちにはラジオをひねると車のスピーカーからニョキニョキと野菜がとびでてきて、つまるところ自分の味覚もまんざらでもないことに気づく。その野菜の名前がカントリーならば――仙台で収穫されたものを東京で消費しようが――カントリーはカントリーだったのに。それでよかったのに。そこからなにかがおかしくなりだすのだ。カントリーチャートの枠で評価はとどまらず、ポップチャート(全国向けの市場)でも扱われたと、それだけのはなしなのだ。まあ商業的な成功は目を見張るものがあろうが、それは我々熱心な消費者にはなんの恩恵にもならないのだから放っておこう。
どういうわけかポップスというのはどこをどうつついてもポップス(鶏のクソをどう取り繕ってもクソはクソ)なのだ。べつにポップだろうがカントリーだろうが、レゲエ、ジャズ、クラッシック、ヘビメタ、ボサノバ、サルサ、ラップにヒップホップ、パンクに演歌やソウル、R&Bだろうとかまうことはない。ゴスペルでもミュージカル音楽でもいいだろう。いいものはいいのだ。しかしひとたびポップという名のブラックホールに飲み込まれたら最後、きのうとおなじ職場のイスに腰掛けて、頂きものの饅頭を密かに午後の三時以外にも頬張る、なんてことは出来なさそうである。
ここは注意して欲しいのだが、ポップ化するということは、それだけの異なる個性に広く受け入れられるという意味で、ジャンルの垣根をこえてその一つのものの良さを理解しあえたという共通の財産であるのに、ポップ化すればするほど、その歌や歌い手、そして聞き手までもがノッペラ坊になってしまい、汚れた洗濯物の山と変わらぬ、結局は抽斗から取り出せば事足りる日替わりのソックスなのだ。それも洗濯をくりかえして肌に馴染んできたお気に入りのシャツではなく、真新しく余所余所しい外着になってしまうのだ。
「右にならえ」は斬新で、洗練されていながらも、保守派の意見に耳を貸す余裕のある大物のすることではない。近くて遠い北の国のように、糸屑ほどの乱れもみせないマスゲームや作られた笑顔に、目に見えない恐怖すら感じ取られるように、ポップス化した「実は魂のかけらもなにもない」カントリー音楽を生みだしてしまうわけだ。パタゴニアも遺伝子組替を非難するわけである。(えっ関係ない?)
「わたくしは断じてそれを許しませーんっ!」(鳥肌実の口調で)「なんでみんなポップなんだよと。ポップじゃなきゃ、売れてなきゃ、有名じゃなきゃ、ディレクターの趣味じゃなきゃ、大手じゃなきゃ、『目覚ましテレビ』はいい音楽を紹介しないのかよと。え〜、まあ、わたくしは訴えていきたいと。思っているわけでございます」「吉田拓郎万歳!ムッシュ。ムッシュと歌った『シンシア』はいい曲だ。あれが日常なんだよと。浅田美代子にゃ理解できるわけがござんせんっ!」「ご清聴誠に感謝致します」