米国のアニメキャラ、チップマンクスくん達が「おら〜死んじまっただ〜」調の甲高い声で、アラン・ジャクソンとハモっている。クリスマスソングの大合唱だ。もう気がつくとこんな季節になっている。時の経つのも早いものである。かと思えば、27年と五ヶ月が経ち、わたしもようやくマイカー購入である。
とはいってもお金を払ってくれたのは、この五月に亡くなった母方の祖父――なにもしてやれなかったのにお金なんか貯めててくれて・・・・・・ありがとう、爺ちゃん――と親父である。恥ずかしいかぎりだ。初めての車ともなれば、親からの援助で購入するというのも珍しいはなしでもなかろうが、こういう高い買物になればなるほど、わたしは自分で支払いを済ませなければ気が済まぬ性質である。独占欲がつよい証拠かも知れないが、自分や世間様に比べれば、それこそ好きなものを買うという行為を自粛しつづけている両親に、これ以上迷惑はかけられぬという考えもあるし、高い買物については、買った以上は誰からもケチをつけられたくないというのもある。それがいいアドバイスにしろ中傷にしろだ。発言権は与えたくないのである。
当初、母方の祖母から「孫貯金」のはなしを聞いたときには「しめた!」と正直おもったものだ。借金を返そうか、パソコンを購入しようかと、あれこれ吟味し、ホロ酔ったものだ。まあなにかと物入りの時世であるから、非常時のために救急バックと一緒に金一封を隠しておくのも悪くはなかっただろう。だから両親が「これで車でも買ったらいいんじゃないの?」といったのにわたしは、「チャリでいい」と一貫して頑な態度を示した。実際のところ空気を汚している大半は車の排気ガスだというし、勤務先は渋滞箇所をとおる道のりであるから、自転車とさほど通勤時間が変わらないわけで、むしろ両親が親バカで心配しているのは事故と寒さと雨、風雪である。それでも「チャリでいい」わたしの意思はナニよりも硬かった。
ところがどうだろう。休日に茶の間でくずぐずしていると、知らぬ間に出て行って帰ってきた両親が「くるま、契約してきたから」というではないか。「なにしてんの!?」わたしは苛立った。仮に親達のすねをかじって、自らの意思で車を購入するにしても、自分の目でみて決めたいではないか。ただ走ればよいということ以外に車への興味がないわたしにだって、選択権はあってもいいのではないか?まして親は知らずとも、それなりの人脈というものもある。買うときは「その筋の知人」からと決めていたわけだ。かあ〜っ、なんだべや〜。
とはいうものの本当に車への興味がないわたし故、日産マーチ(色はシルバー)の新車に文句はなかった。雪がつもったら「バスと電車で通えばいい」と意地をはってきたわたしでも、やはり目の前にマイカーがあればそれを利用してしまうのであった。かたじけない。とはいえこれで、両親の面倒を診るのもきまったも同然(次男だが兄は横浜在住)である。こんな言い方をしたら罰があたるだろうか・・。
そうかといってみれば、愛車にカントリー歌手アラン・ジャクソンの本名と自分の名前とをかけあわせて「ユージーン」などと名付けてみたり、夜な夜な出掛けていって「初めて乗せる人は決めていた」などと、レイコを迎えに行くという小恥ずかしい行為さえもしてしまうのである。
時は21世紀だ。時代おくれの男を自他ともに認めていたものだったが。そのむかし、携帯電話を手に入れたと友人達に報告すると「世も末だ」と口々に嘆きを露わにしたものだった。「ついにいしがきも・・・」「たしかに便利だ。でもなぜか悲しい・・・」「それでいいのか、お前は・・・?」
金曜の晩にタカサンから「飯でも喰うべ」と誘いがあったので、待ち合わせ場所まで「ユージーン」で駆けつけてみた。すると、事情を聞いた彼がこういった。「(親父さんが)なにかを察したんだろうなあ――」とまぶたを閉じる。時は21世紀なのだ。
いや、いやいやまだ慌てることはない。根本的にビッグマネーを手にしたことがないから、ものの考え方もスケールが小さくなる。ゴルフとスキーは個人が楽しむには自然を破壊しすぎている。こう主張して誘惑から回避しつづけてきた男は、「まえの職場のとき、スノボーやるからウェアも道具も全部揃えたのに、全然つかってない!」と訴えるレイコから「じゃあ、ソリ買ってすべっぺや!」といって逃げている。「ほらほら、青葉山のあそこで、人なんて絶対こねぇから!」と・・・・・・マジなんだなこれが。楽しんだって。