このあたりもだいぶ変化した。ナナの散歩をしながらふと山沿いのほうへ見やるとマンションの窓明かりが目に入る。最低三箇所は確保できた草野球のグランドや空地も、今では建物がたっているか建設中である。ずうっとここで暮らすのだろうと思っていた我が家も、地下鉄東西線の路線計画地になっているから先が読めない。所詮最後の種族なのである。精神だけでは太刀打ちできない権力につぶされ、住処を奪われてゆく。むしろわたしはこそくに生命力をフル活用する肥えたネズミ達よりも、山猫や鷹やリスやもっとそれ以外の名も知らない動物や植物とおなじくして、滅び行く死を生きたいと思う。
自然に囲まれて生きてきた。けれどもわたしは恥ずべきことに草木の名前もろくに知らないし、牧童のように自然とのかかわり方を学んできたわけでもない。アウトドアワークに関する知識もなければ、生態系のなんたるかなど無知といわざるを得ない。されど自然のなかで生きてきた。土があり草木があり、花があり水があり、澄んだ空気があった。リスがいて鴨や狸がいて見たこともない昆虫が毎年顔をだした。季節の薫りを楽しんで太古から生き延びてきた長老と無言で語り合ったこともある。戯けているとお思いだろうが、木はこちらの準備が整ってさえいれば、聞く耳をもってくれる。以前、わたしがゴミ拾いをしながらトレイルランニングをしていたときのことだ、休憩中のわたしに彼らは「愛してくれてありがとう」と言ってくれた。向こうからメッセージを投げかけてくることもあるし、実は彼らは饒舌な友人なのかも知れない。ただ我々が勝手に彼らを無視し、冷たくあしらってきたに違いないのだ。
よく「絶対にあなた達を守ってみせる」といったものだった。世界を敵にまわして独りぼっちになっても貫いてみせるとわたしは誓ったのだ。とんだでっち上げだった。冷酷無比の薄情な嘘つきだ。わたしは僅かな抵抗力ももたない卑劣な生き物である。愛するもののために何も出来ない無能な将軍。とんだ一杯喰わせものなのである。言い訳はない。恐らく彼らは二度とわたしのはなしを聞いてくれないだろうし、声をかけてよこすこともないであろう。もはやどうにでもなる世の中ではない。ちょっと郊外に車を走らせれば山が悲鳴をあげ、根こそぎ取られている。衣服を剥ぎ取られ、鞭を打たれているのだ。かつては血色のいい自分の顔を映し出していた濁りない湖に、わたし達はゲロを吐き、そうでいてぬけぬけと鏡を覗き込むのだ。そんな理不尽なことがあるだろうか。もうたくさんだと言いたい。
わたしは偉大なる社会などいらない。素晴らしき日々があればよいと思う。子供達がテレビゲームに夢中になるのは、外で遊ぶところがないからだ。子供達は遊びの天才なのに、街中ではその術が生かされることはなく、空想の世界に浸りきっている。大人は大人でおなじことだ。政治家をみればこの国が揺らいでいることが容易に判断できる。そしてその馬鹿な九官鳥を選んだのはわたし達自信である。檻に閉じ込めておくべきだったのに・・・・・・。もうたくさんだろうか。ならばそれでいい。わたしはあなた方とは違う。誰とも違う。あなた方には見えないものを見つづけてきた。それが見えることが至上の喜びだったのに、いつしか希望の光が灰色の雲に覆われて、再び姿を現したときには、目を覆いたくなる得体の知れない物体になってしまった。いま、わたしはそれが見えることが苦痛である。疲れ果ててしまった。勘弁して欲しいものだが、見つづけるしかあるまい。