フィールド・レポート 第9回 『激戦の果てに』

(初出:第56号 01.11.21)

課題や皮肉は抜きにしよう。プロスポーツにオフシーズンがあるように、辛辣な批判やあら捜しは小休止して、わたしも温もりの安堵の世界に身を委ねようと思う。ぬるま湯にゆっくりつかり、解禁されたワインを味わおうではないか。なにしろ「仙台―京都」間の八百数十キロのバス移動は心身ともに辛いものがあったし、何よりも緊張感は疲労を生むものだ。勝利はすべてを忘れさせてくれるが、その開放感から隙を狙われないともかぎらない。なに、のぼせない程度ならば心配は無用だろう。ほんの一杯のグラスである。飲ませて欲しい。
財前がものの見事なボレーシュートでゴールネットを揺らし、我々に握りこぶしを掲げてみせたとき、わたしは泣いていた。ロスタイムでの劇的なゴールだった。ボールがネットでクッションしているときには、相手のゴールキーパーもまだ宙に浮いていた。白黒のスローモーション映像だ。一瞬の静止画像のあとで、財前。彼が掛けてくるのが見えた。拍手と歓声。情熱と狂喜。涙と汗。失いかけたなにかが修復され、完璧が構築された瞬間だった。三分間のロスタイム中にはベンチが慌ただしくなにかを訴えていた。恐らく審判にたいし「もう時間だろう。早く笛を吹け!」か、選手たちにたいし「落ち着け、時間をかけろ!」のどちらかであったはずだ。試合終了時の飛び出し具合からすると、勿論スタッフは山形の引き分け、延長戦突入のニュースを耳にしていたわけだ。「山形えんちょーだってよー」右隣の男性が確認と認識、そして報告をかねて叫んだ。「うおーっ、J1だーっ」誰ともなく叫んだ。京都の空に伊達ッ子の雄叫び轟く。「ベガルタ仙台、劇的勝利。悲願のJ1昇格果たす」
だいの大人が涙するというのは素敵なことだ。悲しいこともあろうが感情をさらけ出すというのは、こころが死んでいないという証だから。わたしは感謝している。わたしは生きているし、なによりもこころが独りで小躍りし、血は熱く滾っている。素晴らしいことではないか。陳腐であるが京都にきた甲斐があったというわけだ。スタジアムをあとにするときには窓を開けひろげて、送る笑顔に手を振ってかえした。見知らぬ初老のベガルタ人と握手。お疲れ様でした。見知らぬパープルサンガ人とエールの交換。来年は一緒に頑張ろう。それはいいことだったし、だれもがそのことに気づいていた。
旅行会社の気の効いたはからいで我々ツアー参加者はささやかながら祝勝会(お膳は大したものだ)を催した。乾杯だ。美味かった。しみ入った。福島、新潟、福井、石川、滋賀・・・。眠気からどこがどこやら把握できない。琵琶湖をみたし、マス寿司も食べた。京都観光も少々。そして奇跡を観た。加山雄三の『ぼくの妹よ』という歌の歌詞には「愛するとは信じることさ」というのがある。わたしは信じていた。だから奇跡を拝めたのだ。そうそう、家路へ向かう途中のおしっこ休憩でみなが夜空を見上げていた。満天の星空にしし座流星群。流れ星が幾筋もはしっているのをわたしも目撃した。ふむふむ。”ベガルタ”仙台か。我々が勝つはずである。



「過去原稿」ページへ戻る
 
「第10回」を読む