ベーグルサンドからアボガドと小エビのシュリンプがこぼれちるのに堪えきれず、それらをフォークで突っついていると一部始終を見遂げたレイコが「友だちへの手紙」(どうやらわたしは彼氏から友だちへ降格のようだ)を隠しながら、くすくすと含み笑いを洩らしはじめた。いたずらっ子を見守る母親のような眼差しにばつの悪さを感じている「友だち」を尻目に、彼女はしばらくのあいだ笑みを浮かべていた。
レイコが「友だちへの手紙」を書いている間にわたしは、スティーヴン・キングの『小説作法』に読み耽っていた。書くために人生があるのではなく、人生があるから書くべきだといっていた。さすがはスティーヴ。わたしは教科書をテーブルに伏すと、レイコが受身をとるまえに喋りだした。
「いきなり内蔵をさらけ出されたら誰だって肝を冷やすだろう。腸(はらわた)をみせられて正気でいられるのは医者ぐらいのものだ。けれども腸を見せられても、そいつを取り繕えるのがブコウスキーなんだ!」わたしはつづけた。「卑猥な言葉や汚い言葉を突きつけられると、みんながみんな退きやがる。愛情のあるセックスにしろそうでないにしろ、これだけの人間が存在して、夫々の生活があれば奇麗ごとばかりあるはずもないのにだ!」
目を丸くした彼女がどういう解釈をしたかは定かでないが、わたしの話しを面白がっているふうでもあった。これには確信がある。これ以上騒ぎを大きくしてはならないという防衛本能が密かに働いていたともいえる。兎にも角にもわたしは気持ちが昂揚しはじめていたのだ。
「詩のボクシングにでてやる。おれの詩が評価できるならしてみやがれ畜生!」といってやった。誰に対してかはわからないが・・・。たしかにわたしはこう口にしていた。
地下鉄を旭が丘駅でおりて、台原公園の心臓部をトレイル。開館以来はじめて「仙台市文学館」に足をはこんだが、月末(10月31日)は休館ときた。出張の振替休日が一瞬にしてパーでる。阿部二郎の作品を読んでみたかったのだが、原稿を没にされた脱サラライターの気分であった。暇を持て余した文学館の清掃員にしてみれば、ちょうどいい話しの種になったのではないか。
わたしは本質的にイカレている。なぜだか最近、モノ書き志向である。こころのバランスが崩れかけている。レイコはまともな娘なので彼女に責任はないが、なにか気に喰わないことがあると彼女にあたってしまうのだ。まともにわたしの話しを聞いてくれるものなど他にいないというのにだ。責任は紙の上になすりつけてやる。わたしの文章を読める特権階級の読者諸君。これからは覚悟すべきだ。