「断簡拾遺」の断簡

(初出:第99号 05.7.21)

ここ2月ほど、劇団「零」の第2回本公演の脚本を書いておりまして、まあ約2年ぶりという事で一応座付き作家として準備は万端だったはずがあっという間にストックが切れてしまい、この2ヵ月で一気に書き上げたというのが9月9日から11日まで、江古田「ストアハウス」にて行われる公演「断簡拾遺〜tianjin1900〜」の話になるわけです。出来具合は直接ご判断下さいということで、どうぞよろしくお願い致します。
つまりSD誌の執筆者としては発行時点でネタ無し(タネ有り)の状況。そこでこのところのマイブームたる今公演の制作秘話を、全く望まれていないながらここで明かしてしまおうと言う訳です。何しろ中国史実に取材した作品でありますので、予備知識は持っておいた方が良いです。観に来られない方々も、話のタネにご一読を。

タイトルの「断簡拾遺」とは、陳舜臣氏の書いた「中国の歴史」(集英社)という名著に由来します。各時代を子細に記した本文の後に、別に方々で書かれた短文が付記されていて、このタイトルが付けられています。つまり断簡(短文)を拾遺した(拾い集めた)という意味なのでしょう(実はよく分からん)。今回の作品は、全くのオリジナル(インチキ)ストーリーなのですが、一応史実とリンクさせているということで、「当時の知られざるエピソード」という意味にしてこのタイトルを頂きました。まあ、雰囲気は出てますよね?
副題のtianjinとは中国の都市、天津の英語表記です。1900年当時の天津、いや、中国(清代)は「義和団(の乱)事件」という闘争の渦中にありました。(資料1)
そもそもこの史実に興味があった訳ではなくて、票(金票)師という、現代で言うガードマン、ボディガードの類を主人公にした話に..というのを座長と企画していたのです。(資料2)色々と案を出している内に、義和団と巡り会うことになりました。
中国拳法の話になりますが、現在「内家門」と呼ばれる「気」を重視したスタイルの拳法は「太極拳」「形意拳」「八卦掌(拳)」が知られ「内家三拳」と言われています。この内「形意拳」の李存義という名人は、万通「票局」の創立者で、天津「義和団」に参加し、後年中華武士会という「日本武術」に対抗する武術結社を設立しました。本筋にも被ってきますので詳述を避けますが、つまり票師が登場し、義和団が登場し、日本人が登場する舞台が、この人のエピソードを眺めていくうちに整ってきたのです。
さあ、後は資料をお読み頂きましょう。背景が見えてくると本作はより面白さを増してきます(自負)。出来うるなら、この記事を読んだ方々が全て、公演に足を運ばれることを期待します。
千客万来!

(資料1)義和団事件とは?・・
アヘン戦争、日清戦争(甲午の役)が敵方の勝利で終わり、不平等条約(馬関=下関条約等)により清国は疲弊、大陸には列強諸国の魔の手が伸びようとしていた。すでに国内では各国介入による鉄道敷設などが行われ、人々の根強い風水信仰を刺激していたし、(一部の悪徳)キリシタンが横行する状況で、人々は反ヨーロッパ、キリスト教闘争を激化させていく。元々山東省では百蓮教その他の宗教結社の力が強く、大刀会などの秘密結社も反キリスト教を明確に唱え暴動を起していた。山東大刀会の頭目の一人、朱紅燈(灯)は「義和拳」という護身と健身を兼ねた拳法(一名「梅花拳」)の達人で、これが義和団の中核となっていく。彼等は「檀」を基礎組織とし、それぞれに信仰する神様を祭り、「神と人とが助けあえば、刀も銃も体に入らない」と宣伝し、一般人を取り込んで急速に拡大していく。そもそも「反清復明」(明の時代に戻ろう)という反政府スローガンを掲げた秘密結社だったが、新しく山東巡撫(地方長官)となった毓賢が排外思想を持つ人物で、彼等を擁護した(義和団の命名者でもある)から次第に「扶清滅洋」(清を扶け、西洋を滅ぼす)の愛国的集団に代わっていった。
こういった外国人迫害を列強が許すはずはない。ドイツの強い要望により、毓賢は北京に戻され新建陸軍の袁世凱が巡撫に大抜擢される。ただし毓賢はすぐに山西巡撫に任命されたから、必ずしも政府は擁護策を非難していなかった。袁は政府の懐柔策に反し、厳しい鎮圧を行った(逮捕されていた朱紅燈も処刑される)。義和団は活動の場を北の直隷(河北省)に移す。民族主義的、愛国主義的集団に変貌した彼等を、直隷総督の裕禄は意外にも歓迎する。排外の実行集団である義和団の意気はますます上がり、1900年5月、ついに首都北京に向けて進軍する。
清国政府では、時の権力者西太后が同じく排外思想の持ち主であったから、彼等の暴挙に制裁を加えないでいた。これが列強諸国には暴動をコントロール出来ない政府という印象を与える。公使を殺されたドイツ、満州を狙うロシアが即座に兵を送り込む。日本は勢力拡大を危ぶむ声に参加は微妙だったが、戦力を他方に注いでいる米英に支持されこちらも大軍を送る(蛇足だが、義和団にとっては日清戦争の記憶も新しく、日本人も「東洋人」という洋人の一種とみなされていた)。計8ヵ国の連合軍は北京を目指し、西太后は義和団を利用しこれと戦うことを決定した。
壮絶な戦闘が繰り広げられたが、天津を攻略され、西太后はあっさり義和団を裏切り、逆に鎮圧を始める。北京が占領され、西太后が西安に逃れると、連合軍の大殺戮の前に義和団は壊滅した。
中国史上では、彼等の出現を愛国主義の発露と一面評している。しかし実際は過激過ぎて民衆も離れがちであった。太平天国(の乱)のような、政治的改革的思想が薄かった。従って事後、あっさりと消滅してしまう。
ちなみにこの義和団鎮圧に活躍した日本は列強の一員としての地位を得ることになる..。

(資料2)票(金票)師について・・
保票とはボディガード、ガードマンの類で、商品経済の発達した清代中期以降出現した職業形態である(誕生は明代中期)。特に金銭、物資輸送にあたる護衛業を一般に票行といい、その具体的な専門会社を票局という。票局で活躍する保票が票師と呼ばれ、この職業的武人たちは中国武術と密接な関係にある。清末、北京八大票局の中でも最大規模を誇り、1920年代まで残った最後の票局、「会友票局」(会友とは「以武会友」(武を以て友と会す)の語にちなむ)は武術的には創立者宋遇(草冠)倫の三皇砲捶拳を本門とする。いまでも北京では有名な流派であり、票局が消滅してもその武術は立派に伝統が受け継がれている(「拳児」にも出てくる。蛇足)。

注:この資料は公演パンフレットに載せる解説の草稿です(なんて貴重?な!)。



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1年後に続く..