明末清初の時代〜「山僧伏龍」の周辺

(初出:第110号 06.6.20)

昨年に引き続き、今秋も武劇「零」は中国史実を元にした作品を上演することになりました。お陰様で現在直しの真っ最中で、毎週のように締切に追われている日々が続いておりマス..。
9月1日から3日まで、南池袋「アートスペースサンライズホール」にて行われる公演「山僧伏龍」(今回はタイトル確定してます)の予備知識を、相変わらず望まれてもいないのにお伝えしようと。そもそも私の描くのは壮大なる中国史の中のほんの些細な一断片に過ぎず、その背景には何重もの複雑な状況が満ちており、興趣は尽きません。観に来られない方も、話のネタに是非御一読を..。

明が滅んだのは西暦で言うと1644年。日本では島原の乱が起きた(1637)直後で、鎖国令を敷いた家光公の御代、江戸初期に当たる。
最後の皇帝、崇禎帝(毅宗)は決して暗君では無かった。しかしその事が災いしてしまう。当時北方の女真族(金国)の侵攻に悩まされ、軍備がそちらに集中されていた。役人や宦官は自分達を通さず自ら政治を行う皇帝の姿勢に密かな反発を抱いている。そこを、重税に苦しむ民衆に成り変わって反乱を起こした李自成に付け込まれたのである。この流賊(盗賊)から成り上がったリーダーはほとんど戦わずして北京(城)を陥とす。哀れ崇禎帝は頼みの軍も戻らず、城内の連中には見捨てられ、独り自縊して果てるのである。この事が後の伝承に絡んでくるのだがひとまず置いておいて。
李自成は早速順帝を名乗り、大順国が誕生した。これを知った明の大将、呉三桂は一旦順帝に帰順するものの、折り合いがつかず(一説にはお気に入りの愛妾を取られたから、とか)離反する。その頃には女真族は満州族と名を変え、国名も清となって強大化していた。このかつての敵、清と呉三桂は手を結び、彼らを中原(=中国本土)に迎え入れる。誕生したばかりの新王朝はこうして皮肉にも清の代わりに明の皇帝を葬っただけですぐに討伐されてしまう。
一方、逃げ延びていた崇禎帝の弟たちは南方で改めて明朝を再興させていた。南明王朝と呼ばれるこの王朝は3代まで続くのだが、実の所は醜い権力闘争に明け暮れ、大した実績も挙げぬままかつての部下、呉三桂らによって追い詰められ壊滅する。
ここに漢族の王朝は滅び、満州人による支配政権(=清)が誕生した。
中華思想から言えば清国の時代は夷狄による植民地時代となる。中華思想とは中原を統べる漢族(から出る皇帝)こそが地上界の覇者であり、周辺諸国は全て皇帝の領土、諸民族は皇帝の領民であるという考え方。後の三藩の乱での「興明討虜」のスローガンもこの思想に基づいている。清末民国時の「反清復明」などのスローガンも同様だが、この頃には西欧諸国の脅威が遥かに勝っていた為、「扶清滅洋」転じて「五族共和」(大陸全体で外国勢力を排除しようという考え方)路線を敷く。
閑話休題。従って明から清に変わったこの混乱の時期は、日本の戦国時代のように明末清初の時代、と呼ばれるのである。

本編の時期は1670年前後。清国の2代目(康煕帝)の頃となる。統一に戦功のあった明朝の軍人(呉三桂など)は南方の辺境地域ではあるが独立自治を認められ親王と呼ばれていた(呉三桂は平西親王として雲南、貴州を。他に平南王や靖南王など)。漢満のパワーバランスが拮抗していなかった事からの窮余の策である。満州人は中原においてまだ影響力を持っておらず、反清勢力も多かった(台湾の鄭成功一族など)。そこで漢族である呉三桂らに一定の権力を持たせ、その代わり辺境地域の掃討を任せたのである(北方は彼等満州人の故郷であるので問題は無い)。
体制が整い、本格的な支配が始まった1673年には追い込まれた形で呉三桂ら旧王朝(=漢人)勢力が「三藩の乱」と呼ばれる反乱を起こし鎮圧されている。
史実としては、彼等は冷たくされて(形式上の引退を申し出、引き止められるか相応の見返りを期待していたら本当に更迭されてしまった)仕方なく反抗した訳だが、ここをフィクションの綾で最初から謀反を企んでいた事にして本編は進行する。
そして展開は、反体制秘密結社「天地会(のち、三合会)」の起源伝承を基にしている。これは別項に記すので参照してもらいたいが、康煕帝が悪者扱いされているのはこの三藩の乱で漢人勢力の残党を一掃した、ただこの一点に拠るようなのだ。そもそも明朝を倒したのは漢人である李自成や呉三桂であり、従って満州人が巨悪の本魁のように語られるこの伝承には多少の不満が残る。そこで直接の支配者たる呉三桂らの計略に、少林寺ならぬ湘山寺は犠牲になる、という筋に改めてみた。生き残った寺僧はどのような形で復讐を目指すのか、それとも..?といった内容で、実はオリジナルの原形をとどめていないストーリーに変わっているのだが、ひとまず史実を通してもらった上でフィクションを楽しんでもらいたいと、こうして再び講釈をぶってみた訳です。

付記:天地会系秘密結社(清末明国期には名称を変え、「三合会」と呼ばれる)起源伝承(要約)

<発端>
福健省福州府甫田県九連山中に「少林寺」なる一寺院があった。(少林寺拳法で有名な嵩山少林寺とは別←これも脚光を浴びるようになるのは戦後の話ではある。蛇足)
僧侶たちは日々武芸の修練に努め、武勇は全国に鳴り響いていた。
<西魯国討伐>
清代康煕年間(1662−1722)、西域にて西魯国が清朝に叛旗を翻す。康煕帝の出した鎮圧兵はことごとく敗れ、全国に討伐の勇士を募ったところ、少林寺の鄭君達というのが128名の僧侶と共に従軍を申し出た。その強さは圧倒的で、西魯は平定される。
<康煕帝の裏切り>
当初は喜んだ帝だったが、あまりの強さにもし叛かれたら大変と恐怖を覚える。ついに兵数百を派遣して暗夜に乗じて少林寺に火を放ち、僧侶を焼き殺してしまった。
5人の僧のみ生き残り、彼等は流浪の旅に出る。
<軍師、陳近南との出会い>
追手を避けて旅を続ける一行は、もと翰林学士で今は隠棲している陳近南と出会う。彼の導きにより紅花亭という一堂に暮らしはじめ、復讐の計画を練る。
ある日、河畔を歩いていた僧が川上から流れ着いた香炉を拾い上げた。その底には「反月復日」(月日は三ずい偏)と記されていた。陳近南は清が倒れ明が復興する暗示と解く。復讐の期は迫ったと。
<朱洪竹登場>
陳近南は明朝復興の旗幟のもとに戦士を招募し、108名の呼応を得た(「水滸伝」の登場者数に掛けてある。蛇足)。中で劉備玄徳のような竜顔をした少年がいる。この少年こそ明朝最後の皇帝、崇禎帝の孫にあたる朱洪竹であった。
そこで一堂は彼を主君と奉り、紅花亭にて兄弟の盟約を結ぶ。この夜、東の空に紅光が現れた。ゆえに紅と同音の洪の字を兄弟の姓とした。
<機、未だ熟さず>
さらには英雄・万雲龍を味方に加え清朝との戦いを開始したが、清軍は手強く万雲龍は戦死、兄弟たちも散り散りになり、幼帝朱洪竹の行方も知れなくなってしまった。
陳近南は5人の僧侶を含む生き残った兄弟たちの前で告げる。
「天に祈り占ったところ、未だ清朝討滅の機は熟していない。我らはここで別れ、志を同じくする士を各地で募り、来るべき日に備えよう」
諸兄弟は会の秘密と暗号、隠語を携えて各地に散っていった...



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