お久しぶりです。今年も武劇「零」は池袋演劇祭に参加しまして、先日無事公演を終えました。ただ今回は旧知の「えすぷろだくしょん」がプロデュースした和風時代活劇であり、私はシナリオの直しを手伝ったのみ。従ってこの夏はひたすら「自習」しておりまシタ。
中国武術に強い福昌堂という出版社から出されたおそらく渾身の一冊であろう『中國武術史大觀』(笠尾恭二・著1994)というブ厚い本を発見しまして。チマチマと読み進めている最中です。本書で述べられている内容と、浅薄ながら私の仕入れてきた知識を合わせて少々語りたくなってしまったので秋の夜長におつき合いください。
「武」字について‥
「武」という文字を時代小説などでは「戈(か。武器)を止める」と書くとして武力は『自衛の手段』なりと戦国武将辺りに言わせている。これは実に日本的な考え方である、と中国史実を扱った本では述べられている。すなわち原義として「止」とはそもそも「足(進む)」を表しているので、「武」字は「戈を持って進む」、武力によって『他国を侵略する』意味が本来である、と。
本書では冒頭にその辺りが述べられていて、もう一つの解釈が紹介されている。「戈を以て止むる」、武器で相手を牽制し、実際の戦闘を未然に防ぐ=『抑止力』こそが武力のあるべきところだとする解釈である。
「相手を攻撃する」「相手の攻撃から身を守る」「相手から攻撃されないようにする」..「武」の持つ意味はこのように多様に変化しているが、現在の我が国の「武力」は果たしてどの意味を目指しているのだろうか。
「長篠の戦い」について‥
織田信長率いる鉄砲隊が常勝武田の騎馬軍団を散々に打ち破った。というのが長篠の戦いの概要である。ご安心ください、書いている私もはっきり言えるのは中学生の教科書レベルでありマス。
もう少し詳しく語るとこの戦いで特筆すべきは織田軍の鉄砲隊が当時としては破格の三千挺もの鉄砲を使ったこと。しかも3隊に分けて、1隊が射撃を行う間に次の隊が玉込め、火縄の準備をし、撃った隊は速やかに後退して銃身の清掃を行う..つまり銃撃の間隔を徹底的に短くして、撃ち終わった隙をついて進撃しようとする騎馬隊を完璧に阻んだ、というのが大勝利の要因であった。この攻撃法、信長が最初に考案したのだとすればさすが第六天魔王と言えるのだが..。
中国武術史と言いながら日本史が出てきたのには訳がある。この戦い方、実は宋代の兵法書『武経総要』にある、言ってしまえばオーソドックスな戦法だったのだ。当時の長距離攻撃に使われていたのが「弩(ど)」という強弓。足で本体を踏んづけないと弦が張れないような代物だ。つまり矢をつがえるまでに時間が掛かるので、その隙に距離を詰められる。そこで「連環射撃法」が勘案された。
「発弩人」は矢を発射するとすぐに後方に下がる。次に待機していた「進弩人」がすかさず前に出て「発弩人」となる。この間に弦を張っていた「張弩人」が中列に入って待機するのである。まさに織田軍の鉄砲隊の手法がこれ。
この「弩」は結局「銃(火薬兵器)」の発明で役目を終えるわけだが、その極意は射撃術に受け継がれている..と本書にはある。まさに史実が物語っているわけであるが、では信長(作戦立案者)は「武経総要」を読んでいたのか。もしそうなら『孫子』兵法を旗印に掲げる(風林火山)武田軍とは新旧中国兵法の代理闘争の趣が見られるわけになる!?
しかし残念ながら本書では長篠の戦いは触れられていない。
「達磨少林拳開祖説」について‥
禅宗の開祖達磨大師が少林寺の僧侶に伝えた心身鍛錬法が少林拳の起源..これらが全て誤りであることを本書では丁寧に検証されている。すなわち、達磨大師そのものが架空の人物であり、後世の人々が諸々の象徴として作り上げたに過ぎないと。ただ個々のエピソードに関しては往古にあった事実に基づくものであったろうとも言っている。そこで本筋からは離れることになるが少林拳の源流たるこの達磨伝説を現実的に解釈してみようと思う。俗な企図の上に妄想全開でもあるのでくれぐれも眉に唾して読まれるよう。
『面壁九年』と言われているが、ダルマ人形さながらに九年間、じっと壁に向かっていたのではあるまい。ただ壁に向かって座禅を組む行を九年間続けた、というならありそうな話である。密教で阿闍梨(最高位)になる為の修行の一つに「千日回峰行」なるものがあるが、これも千日間ひたすら山に流浪するわけではない。(徐々に距離は伸ばされていくものの)毎日決められたルートを回るだけの事で、戻れば飯も食うし、寝もする。エライのは何があろうと起きようと、一日も休まずに続ける事と、他の僧たちと同じく日課(作務)を勤める事にある。つまり普段通り朝の勤行を終えてから行に入り、戻ればまた普通に仕事をこなし、では明日も、となるのである。達磨の「面壁九年」も同じようなスケジュールで行われたものと思う。不眠不休で、などと比べればずいぶん見劣りするかも知れないが、ギネスの珍記録など真っ青の荒行であったことに違いは無い。
さて、インドからやってきたこの偉いお坊さまが修行しているのだ。門徒衆が真似しないはずがない。本場の整体法(ヨーガ)を熟知した達磨なら究極のリラックス状態で座れていただろうが、他の僧たちはそうもいかず..日ならずして肩のハリや足腰の痛みを訴えただろう。そこで達磨が教えたのが..そう、これぞ「少林拳開祖」を裏付ける『十八羅漢手』である。いかにもな名前だが内容は準備運動程度のものである(ただ現代でも通用するほど実用性があるという)。呼吸法が盛り込まれているところ、内臓をも鍛えるというヨガの真髄にまさに当てはまる。後年の内家拳(気功=内功を重視する拳法諸派の総称)に通ずる部分でもある。拳を巌のように硬くしてしまう鉄砂掌など外功(肉体を徹底的に鍛え上げる鍛錬法)が著名な少林拳であるが、源流はどうも関係が無さそうだ。そもそも少林寺(拳)が武名を轟かせたのは遥か先の明代になる。達磨が伝授したのは武芸十八般とは無縁の単なる整体法だったのだろう。
では武勇で聞こえるようになる少林寺の、いわゆる僧「兵」という存在は何故あったのだろうか。仏教には元々仏敵を討つ武神が設定されているから、異教徒である異国民を征する為の武力は肯定される。しかし仏教が手厚く保護された国内にあって武力は必要であったか。少林寺が禅宗である事に注目したい。宗教が政治と絡んで本質を見失い、堕落していく..とは史上によく見られる状態。そんな中で禅宗はあえて厳しい戒律を自らに課す、中国で産まれた新しい宗派であった。当然異端視する向きは多かったろうし、中国固有の、と言えば道教との確執も激しかったろう。かような状況下で教えを普及、伝授する為には指導者らの身を安全に守らねばならぬ。そう、「自衛」の為の武力が少林(禅宗)僧には殊更に求められたのではあるまいか。従って後年の少林拳士たちへの下地はあったものの、史記に加えられるような攻性の活躍は無かったのである。そして一般に言われる「僧兵」とは実は正式に得度していない門下生=付近の住人たちの事であり、修行中の僧たちは「守られる」側にあった事も付け加えておこう。仏教に親しむ地元民が「オラが村のお坊さま」を守る為に武装していたのである。僧たちはそんな彼らに秘伝の整体法を教え、強く逞しい僧兵が育っていった..というのが達磨抜きであっても少林寺の黎明期にあったのではないかと想像している。
ところで。守られて仏道三昧であったはずの僧侶たちも戦いに向かっていった明という時代であるが..。著者の笠尾氏は後年『秘伝剣術 極意刀術』(BABジャパン1999/日本武術史研究家平上信行との対談集)でもこの明代の中国武術について考察されている。何と「日本刀術がこの時代、中国(明)で制式採用されていた」というのだ。この衝撃的な史実は本書でも語られており、実に興趣の尽きない内容である。その辺りは稿を改めることにして、今宵はここまでに..。