毎度手前味噌な話しから始める。3年前、武劇「零」(当時劇団零)は「歴史再検団」というユニットで『倭冦伝』という公演を行った(04.9.10-12)。タイトル通り中世に殷賑を極めた海賊・倭冦を題材にした作品だが、本作に於いて私は一観客と同然の関わりしかなかった。従って作中の史実も幾つかの時代小説で読みかじった知識しか持ち合せていなかったわけで..。
当時の感想は「扱った題材の範囲が広過ぎで、今イチ主人公が立ってなかったというか..」というもの。倭冦vs官軍から倭冦同士、官僚同士の権力闘争、はたまた脇役の一大ロマンスまで、様々なエピソードが盛り込まれ「過ぎて」いた為、本作が主人公「倭冦王・王直」の生涯を描いたものだというのが見え辛くなっていたと。
しかしあれから3年、『中國武術史大觀』(笠尾恭二・著1994)などで改めて当時の歴史を精査していくと、あまりにも魅力的なエピソードのオンパレードに驚嘆せざるを得ない。作品が広大無辺になってしまうのもむべなるかな。もし今私がこの題材で作品を書いたとしたら輪をかけて茫洋とした寄り道の多過ぎる内容になってしまうことだろう。
物語化することは早々に諦めて、それでも語りたい武術に関する倭冦のあれこれを今宵は出来るだけ順列的に挙げていくことにする。相互に関連していくこれらの逸話から歴史の深さがほんの少しでも伝われば僥倖である。
倭冦は当初、勿論日本の海賊であった。九州北部の諸島は朝鮮半島や大陸=中国に近く、言わば日本とも隣国とも直接つながっていない地域である。古代から大陸文化を受け入れる窓口であり、同時に脅威にさらされる矢面でもあった。武力を蓄えざるを得ず、また蓄える条件の整っていたこの辺りの一族郎党は貿易海路を舞台にいつしか攻勢に転じ=略奪を始めたのである。海賊行為がしたい放題に出来た理由の一つに「日本刀」が船中の戦闘に極めて有効だったことが挙げられる。槍と違って狭い場所でも取り扱い易く、しかも日本刀は耐久性が高い。倭刀と呼ばれ観賞用で中国に輸出されていたのが、後年実用刀に転じていく土壌がここにある。ともかく。初期の倭冦は文字どおり日本の海賊で、朝鮮半島〜中国北東部を中心に活動していた。そして本土をも脅かす勢いを示したのだが、逆に陸地に到達したことで本格的な掃討戦に遭い、この海域では衰微していくのである。
それから時を経て。倭冦は16世紀に再び隆盛を見せるようになった。この時代、中国(明)は海禁(鎖国)政策を取り、日本は戦国時代に突入とそれぞれ公には内向している。しかし西洋からの航路が確立されビジネスのビッグチャンスが外洋には幾らでも転がっていた。密貿易をするしかない、ということは..海賊の出番である。海路通り倭冦は中国東南部を活動の拠点にしていく。日本から離れたということで当然、面子もだいぶ様変わりしている。この時代、日本人(真倭と記される)は3割ほど、7割は「中国人」倭冦であった(むろん別々に行動していたのではなく、日中混然となってグループ化している)。すでに日本人による越境侵犯、略奪暴行=倭冦ではなく、倭冦とは中国人海賊による反乱活動、と大要は移行していたのだ。従って歴史書にはケチな略奪を行う倭冦ではなく、時に都市をも占拠するほどの強大な倭冦が登場している。中で有名なのが例の『倭冦王・王直(おうちょく)』である。
武術的に取り上げたいのは彼が「以後予算が増える(1543)鉄砲伝来」の当事者だったこと。一海賊として種子島に漂着した王直一行は同乗のポルトガル人が所持していた鉄砲を種子島家に贈ったのである。この鉄砲が信長の天下統一を後押しし、皮肉にも倭冦を衰退させることになっていくとは思いも寄らなかったであろう。これをきっかけに王直は日本人と組んで私貿易ルートを開拓し、ついには倭冦「王」として九州平戸に居を構えるまでになる。中国海賊が倭冦化した、彼こそは典型的なパターンと言えるだろう。中国(明)は、海外貿易を規制したことで逆に彼らのような自国民による密貿易を助長し、ついには倭冦として反攻されるまでになってしまうのだった。
対する官軍側であるが、明の滅亡はこれより約100年後。つまりまだまだ磐石であった。いずれも用兵はおろか個人的にも武勇を誇った猛将揃いである。
『唐順之(とうじゅんし)』は明代を代表する文人であり、また文武両道を行き槍の名人でもあった。最晩年には倭冦とも戦っている。戦利品として得た日本刀をかざし、「これで北の韃靼(モンゴル人)を斬り伏せん」と詠んだ「日本刀歌」は、中国人がメインになってもなお倭冦の中心武器が依然日本刀であったことを示している。
何度も官軍総大将として倭冦に対峙した『愈大猷(ゆたいゆう)』は棍(棒術)の達人であった。彼は北方前線から対倭冦戦に復帰する途路、あの少林寺に秘伝を訪ねて立ち寄っている。そして何と「真訣(=秘伝)は失われている」と逆に棍法を教えていたのである!
前回に続き少林寺が登場したので触れておきたい。自衛の為の武力であった少林寺の僧兵は、侵略、内乱の相次いだ明代に至って「僧兵といえば少林寺が筆頭に上げられる」と言われ「少林僧」「少林派」で通る武術流派にまで発達した。正式な僧侶もすでに武術を修めるようになっていたのだが、これは日常の全てが修行であるとする禅宗においてごく自然のなりゆきであったろう。「使用人がやっている訓練を、我々がやらなくて良い道理はない」わけである。そうして官軍の求めにも応じて様々な征伐隊に参加し、戦功あって免税など優遇措置を与えられた。武名は高まり、武僧といえば「少林僧」と呼ばれるまでになったのだが、それに関して面白い話がある。
倭冦戦に山東から参加した僧兵たちが少林僧を名乗り、活躍したものの戦死を遂げたと歴史書に残っているのだが、少林寺は河南地方である。また彼らの前にも少林僧を名乗る武僧がおり、部隊長の座を巡って「我こそが真の少林である」と言い合って真剣試合を行っている。これ、実はいずれも本物ではない。この頃本物の少林僧たちは内地の反乱軍制圧に加わっている。歴史書にも「少林僧と称した(名乗っていた)」と否定的に書かれているわけだが、背景を抜きにしても彼らの名前から即断定することが可能なのである。少林寺は13世紀、中興の祖である福裕(ふくゆう)を第一代として、その後は「字輩」を使ってきた。字輩とは、門派独自の歌の文句を一字ずつ名前に加えることで一門を証明することである。ちなみにこれは後代の秘密結社や武術界などでも使われているのだが置いといて。この時代の名前には第3句の「周洪普広宗(歌としてはあまねくわが宗を世に広めよ、という内容)」各字が用いられており、彼らの名は月空、天員などことごとく違って、また字輩にあっても時代が違うなどしているのだ。これに対し愈大猷の棍を更に深く習う為、南方に同行した少林僧の名は正しく宗摯、普芝。物語に用いるなら「お前たち、名前からして自ら偽者と名乗っているようなものだ!」てなわけなのである。ただし結論から言えば「お構い無し」。情報ネットワークなど構築されていない時代に、各地から大勢の兵員が集まった中、素性を知らぬ同士が実情を知らぬ流派を名乗ったところで実害は無いわけである。まして「少林僧」=強い僧兵に間違いはない。強い僧兵が少林僧を名乗っても問題は無かっただろう。むしろ彼らや愈大猷など外部の人間の力も加わって、少林寺の武名はますます高まっていったのである。
さて、やっぱり横道に逸れてしまったが、話を倭冦戦に戻すとこのように名将、勇士が揃っていたかに見える官軍、実はかなり苦戦している。時代小説で好んで取り上げられるのが例えば「たった500人で1万もの大軍を撃破した」という戦闘であろう。官軍対倭冦がまさにこの図式に当てはまる。海「賊」である倭冦勢はやはりゲリラ戦を得意としており、専ら奇策で大軍を翻弄した。中には偽の銀貨を撒いて、敵兵が拾い集める隙に逃げる、逆襲するという戦法もある。何とこれが唐順之の書いた「武編」という兵術書で、倭冦が仕掛ける四大戦術の一つに挙げられているのだ。「板子一枚下は地獄」を生きる海の男たちに対し、官軍の雑兵は見事「目先の欲に囚われた」有り様だったのである。彼らを統率し直して倭冦殲滅に尽力したのが、唐順之、愈大猷らの下副将として戦い、後に自ら総大将として「平倭将軍」、倭冦平定の立て役者、と賞賛された『戚継光(せきけいこう)』である。
彼は倭冦平定後も今度は北方警護を務め、著した兵術書は広く中国大陸の武術に絶大な影響をもたらしたのだが、とにかく相手の戦術を熟慮し、その戦闘に即効果のある武器(戦術)は内外問わず取り入れ、それらを分かりやすく分析、解説し、一般兵のレベルアップにつなげたのである。その訓練法は実に単純明快。基本的、実用的な技の徹底的な反復であった。当時倭冦最大の戦術は「胡蝶陣」と呼ばれる日本刀を駆使して接近戦を行い、旗の合図で前進後退を一斉機敏に行う戦法(振り上げられた日本刀がキラキラ光る様が胡蝶の由縁、とか)。戚継光はこれに対抗する「鴛鴦陣」を発案。前列の牌(盾)、狼筅(ろうせん。枝がついたままの竹を武装化したもの)で斬り込みを防ぎつつ、その後ろの長槍(2名)で相手を攻撃、また最後尾の叉把(さすまた)で刀を引っ掛け落とそうという5人一組(2列縦隊で10人が基本隊形)、決して離れず=鴛鴦(えんおう。雌雄それぞれ半身の鳥で終生くっついていると言われる)の布陣。まさに大人数で対抗しつつ、一人一人がやる事は単純、にしたのである。これだと勇猛な者を先頭に(盾持ちと言えど投げ槍、腰刀を持たせ斬り込み要員も兼ねている)、中盤の長い武器を臆病?な者に持たせ、冷静な者を最後尾に置いて進退を見極めさせる、ことで全員が勇敢でなくとも戦闘が可能である。さらに先頭を死なせれば全員打ち首など強烈な軍規をもって否が応にも全員必死に攻撃、防御せざるを得ない状況を作った。この辺りは中国と密接な交流のあった南国薩摩武士の「同士組一人殺されれば全員討ち死にすること」といった激烈な気風と共通するものがある(蛇足)。
また倭冦との戦いで会得した日本刀術を、ちゃんと後年の対韃靼戦に採用している。騎馬でスピーディーに立ち回るモンゴル勢に対し、距離がある時は弓矢に比べ命中率の高い鉄砲で、接近して(されて)は俊敏に扱える日本刀でという戦法だが、この際の鉄砲も何と日本で改良された鳥銃(日本式火縄銃)であったというのだからご先祖様万歳といったところ。
こうして元々少人数のゲリラ戦であった倭冦の反乱は日本刀封じの戦陣により次第に撃破されていった。反乱軍から再び単なる略奪をする海賊へと収縮していったのである。さすがに海賊は亡くならないものだが倭冦としては滅亡同然。日本人倭冦=真倭もまた、「鉄砲遣い」信長の後継者たる秀吉が天下統一を果たし、彼の出した「賊船停止命令」によって廃業を余儀無くされる。しかし彼らは中国人倭冦と違い滅ぼされたわけではない。ほとんどが水軍として各藩の正規軍に編入され、中にはそのまま大名に登り詰めた一族もあったのだ。外国、外洋に向かっていった海賊であるから咎められる理由も無かったのだろう。何とも対照的な最期ではある。
(編注)文中どうしても表記出来ない漢字については類字あるいは類似の漢字を使用しました。
正確には「愈」大猷(心は要らず)、宗「摯」(敬に手)、普「芝」(さんずいに芝)、叉「把」(金に巴)です。主に名前に関する箇所であり、大意に影響は無いと思われますが明らかに誤字であるので注記しておきます。