武術無駄話・続々

(初出:第127号 07.11.20)

夏に読み始めた『中國武術史大觀』(笠尾恭二・著1994)をようやっと読了。季節は既に晩秋..というかもはや冬。秋の夜長にと始めたこの駄話も震えながら語らなければならなくなってしまった。さておき。
シリーズ最終回たる今回は専ら訂正に費やす事になりそうなのだ。武劇「零」では近年中国史実に取材した公演を2、3やらせてもらっているが、その際そこそこに調べていたはずの内容が実は..という記述がボロボロと。改めて、時代考証の難しさを痛感すると共に歴史の面白さを再確認した次第。もちろん本書が完璧に真実を喝破しているとも言えないわけで、あくまで新たに知ることの出来た説、史実の側面をお伝えしようと。過去の拙稿を振り返りながら補完していきたい。何となく記憶に引っ掛かってくれればこれ幸い。

まずは当無駄話から。第1回で長篠の戦いに触れ、「しかし残念ながら本書では長篠の戦いは触れられていない。」としたが、後にちゃんと述べられていた。鳥銃(日本式火縄銃)について一節が設けられており、種子島で模倣製造された和銃は交流のあった畿内(国内)にもたらされ、雑賀衆(さいがしゅう)と呼ばれる紀州の根来寺を中心とした一族がいち早く鉄砲隊を組織。その際すでに例の三段構え戦術は使用されていたと言われていると。信長は彼らを支配下に置いて「軍事的(攻撃的)」に使った武人政治家の嚆矢ではあるけれど、新戦術を発明したわけではやっぱりなさそうなのだ。その雑賀衆が宋代『武経総要』にある「連環射撃法」を参考にした可能性はあるものの、そもそもこういった武器の短所を克服する方法は自ずから勘案されるわけで、ヨーロッパでも銃の発明後ほどなく開発されていたと述べられている。
つまり銃器を重視した織田軍がすでにその短所(発射まで時間が掛かる)を埋める工夫を持った鉄砲隊を使役していたのに対し、騎馬戦に絶対の自信を持っていた武田軍は銃の短所を確実に突いたつもり(一撃をやり過ごした後間髪入れず突撃した)がまんまとしてやられたと。この大勝が後日語られる上で「見事な戦術をもって武田軍を壊滅に追いやった!」ことを強調し、いつしか「信長公は新戦術を発明して〜」となったのであろう。このエピソードから分かることは、昔の人々は確かに現在と比べて知らない事が多かったけれど、決して頭が悪かったわけではないと。そして英雄は無名の人々の功績をも吸収して作り上げられている「時代の象徴」なのであると。ともかく「新旧中国兵法の代理闘争の趣が見られるわけになる!?」としたのは私の妄想に過ぎなかった..ということになるか..。

さて、話を大陸に戻そう。過去少林拳、八卦掌(拳)を主人公に演らせてきたのだが、まだ完成していない話の主人公に太極拳を..と考えている。本書では中盤にかなりの頁を費やして太極拳について語られてある。私は未だ勉強中という言い訳を早くもしておくが、王宗岳(おう・そうがく)が著したという『太極拳経』(18世紀後半)に関する解説書を読んだ程度。その為知識が浅いのはもちろんのこと、だいぶ誤認していた部分も多かったようで..。
おそらく共通認識として、太極拳=ゆるやかな動きの健康体操というイメージがあると思われる。これは現代になって国が壮健法として太極拳の套路(とうろ、練習手順)を簡略化して採用し普及させたからで、実際の太極拳は素早く激しい動きを見せるれっきとした「武術」。ただそれでもまだ「敵の攻撃を受け流し、その力を逆用して無力化させる」という防御主体の受け身の拳という意識がある。それはそれで何か格好いい、テツガクを感じさせる崇高さを持っており、為に是非この拳を主人公にと思っているのだが。実はこの拳理、後年八卦掌、形意拳などとの交流から「内家門」と総称されるようになって初めて完成を見たらしい。『太極拳経』も本来は槍(術)についての内容であり、言わば借り物。端的に流れを説明すると、自警団を組織し反乱軍や土賊たちと戦ったこともある、陳家溝という土地に住む陳一族がやっていた訓練法が母体で、これは色々な流儀を吸収しながら大成していく。そうして清末に楊露禅(よう・ろぜん)という人が北京で武名をあげてから、その弟子武禹襄(ぶ・うしょう)が入手し感銘を受けた王宗岳の武術書=「太極拳経」(と後に名付けられる)冒頭の一文から採って「太極拳」と名付けられる。源流たる陳一族も改めて自分達の武術を太極拳とし、こちらはこちらで元祖を主張したのである。そこで誰が始めたかについては仙人〜王宗岳〜陳家〜楊露禅とする陳家溝外来説と、陳一族の先祖が開祖であるとする説が出来た。
しかし流れを見て明らかなように開祖についてはいずれも後付けで史実ではなく、太極拳という名前で成立したのは19世紀半ば、それ以前は単なる我流拳法の一つであったのである(失礼)。さらに成立直後は田舎拳法の一流派であったのが(重ねて失礼)、各都市での様々な流派との交流によって磨き上げられ、柔軟かつ静的な型へと「変貌」していく。一方地元においても陳金(ちん・きん?)が『陳氏太極拳図説』という教本を出して本来の姿〜質朴豪壮な陳家伝来の拳譜を残した。これらは20世紀に入ってからのことであった。
則ち太極拳は、その成立からドラマがあったわけではなく、分派が著名になっていく中で本家も競い合い、両者の根本が極めて秀逸な所為か、近年になって一大流儀となったのである。そんなわけで剛柔両面の流派を合わせ持って一絡げになっているから、「たいきょくけん」と名前程度の認識で把握しようとすると「老人の体操?いやいや若い人のは凄いぞ。相手の出した拳や蹴りを絡め取る感じ?いやいや打っても蹴っても凄いんだって」と両極端でアヤフヤな捉えかたになってしまうのである。
とまあ、初めて聞く人にとってはへぇ〜とはあ?が共存するような話であろうが、私の設定として「陳家溝からやって来た、主人公の拳を悉く受け流してしまう仙人」が主人公の師となる。としていたのは間違いのオンパレード、ということになる。陳氏太極拳の後継者なら剛的な拳であり、まして仙人では有り得ない、のである。最もこんなのは「細か過ぎて伝わらない」部分に過ぎないのだが..。

話は三たび少林寺へ。
第1回で少林武僧の成立は禅宗へのバッシングに抗うため、と推測したが、「自衛のため」という骨子は誤っていなかったものの、どうも創立間も無い頃、賊に襲われたのがきっかけだったようである。宗教的対立にまで想像を膨らませたのは行き過ぎだった。しかし、そんな妄想が逆に真となって「しまう」こともあるわけで。
清の時代の初期、政府の要請に応じて西魯国討伐に参加、大活躍をした「福建」少林寺の僧兵たちは、恩賞をもらうどころかその強さを恐れられ一夜焼き討ちにあってしまう。生き残った者わずかに5名。彼らは漂泊の末に「反清復明(清を倒し明の時代に戻ろう)」=反乱を企てる..という、秘密結社「天地会」起源伝承を基に描いたのが「山僧伏龍」(06.9.1-3)。この生き残った僧の一人、至善禅師を祖とする拳術が南方系に多いのは清末の武侠小説「万年青」の影響、というのに驚いた。伝承自体は単なる仇討ち話が政治的に整合されたもので、福建少林寺も実在しない。にも拘らずその伝承を更に脚色して存在しない少林僧が活躍する話を描いた「万年青」によって実際の拳法諸派がその登場人物を開祖に祭り上げているのである!嵩山少林寺の武功にあやかって少林僧を名乗るインチキ武僧が多いと第2回で書いたが、彼らが本当に強かったこともまた事実である。そうして剛勇無双の拳=少林派=外家拳(=南派)の一流が成る。
これに対して静をもって動を制す、受け身の拳=武当派=内家拳(=北派)の一流が黄宗義(おう・そうぎ)の『王征南墓誌銘』(明代末)一文から産まれた。少林の開祖が達磨和尚なら、武当派の開祖は道士張三手(ちょう・さんぽう)。則ち外来の仏教系に対し、在来の、中国固有の民間信仰、道教系が対照的に配されているのである。もちろん武当派の代表は太極拳に至る。だがすでに述べられているように、達磨の「十八羅漢手」には内功に通じる呼吸法が含まれている。太極拳も陳氏系は豪壮さを特色にしている。さらに言えば内家拳とは実在した一流派で、それは南派拳術の特性を備えていたというのである。
つまり剛柔、仏道、内外、南北と言う拳法の対立的構造は時代を経て武術が統一・整合されていくなかで創造された「記述」によって定義付けられた想像の産物なのである。現代武侠小説が後年「定説」と成り得る可能性もある!?

話がかなりあちこちに飛躍している。ここでまた歴史に戻す。
清末であるから今から100年程前の話。中国南方部では後に中華民国を建てる反乱が密かに企てられている。例の天地会系秘密結社などである。一方、北部では進出してきた西欧諸国を排除しようという排外運動が猖獗を極めつつあった。「義和団運動」である。これに取材したのが「票局故事〜天津1900」(05.9.9-11)。この頃の話はかなり詳細な資料も揃っているからあまり逸脱したはずはないのであるが。義和拳についての認識がちょっとズレていたようなのだ。
幸いにも?没案となった1シーンで、私は義和団のボスに次のような台詞を言わせた。
福田「義和拳は所詮健康体操よ!だから付加価値を付けねばならん。船頭の娘っ子、林黒児を万病治しの巫女、黄蓮聖母にかつぎ上げ、義和拳は広まった。刀も銃弾もすり抜ける?は、そんな訳あるか!山東順撫の毓賢の前で、その秘技を披露したのは語り草になってるが、あんなのは茶番よ!狙いを外した銃弾が当たる訳ねえんだ!ハハハ、それでいい、それでいい!人々が求めているのは信仰だ!インチキだろうとデタラメだろうと、信じられるものがあればそれで救われるんだ!おのれ、キリスト教め!我々中国人の信ずべきは彌勒仏よ!百蓮教の真理は絶やさぬぞ..!邪教の烙印は必ず取り除いてやる!今まさに、大いなる災いが起ろうとしている。これを乗り越えれば理想郷が現世に現われるのだ!生き延びねばならぬ、何としても、生き残るのだ..!」
まず百蓮教は義和団と直接関係していなかったらしい。宗教的な色があったのは大刀会系の武術、「金鐘罩(きんしょうとう)」と呼ばれる身体を金剛のごとく鍛える訓練が呪文を唱えたり護符を飲み込んだりするものであったからで、イコール義和拳ではなかったようなのだ。そもそも義和団は様々な流派が参加した民兵の一大組織である。従って義和団=義和拳という認識がまず決定的に誤っていた。本来の義和拳は元々梅花拳と呼ばれるごく一般的な流派で、その指導者がまず清朝に叛旗を翻そうとした際、罰せられた場合梅花拳にまで及ぶのを危惧して義和拳と改称したのだった(ちなみに「義和」とは日月を司る羲氏と和氏のことで、「日月」で「明」となる)。そうして反乱組織からスタートした義和拳は、その後排外思想を持って逆に清を助けて西洋を滅ぼそうという「扶清滅洋」を掲げる義和団となり、前述通り有象無象が寄せ集まった集団となっていった。
しかし通説としては義和団=義和拳=百蓮教系秘密結社であると言われていたという。勿論それなりの根拠に基づくもので、大意としては決して誤りでは無かったものの、敗者は怪しげな武術を用いる邪教集団という悪いイメージで総括されてしまったわけである。上記の台詞はそれを鵜呑みにしてしまったということ..「健康体操よ!」「彌勒仏よ!」と叫ばせないで、良かった..。

こうして歴史のエピソードを丹念に検証された本を読んでいくと、実際は渾沌としていてかつ、ドラマティックな展開が次々と起こっていたわけではない事に気付かされる。現実とはこんなものよ、で我々の日常とさして変わらなかったのである。
ではそれを知らされて興味を失ってしまったか、というとこれが全く正反対。学術的な文献を読む事で偏見や盲信は払拭出来た。その上でなお、確証に至らない部分に想像の翼を羽ばたかせることが可能であると新たな意欲が湧いてきた。あるいは史実として分解、整理されたエピソードを再構築し、現在にも通じる物語をつくり出すことも意義有る創作活動と言えるだろう。『中國武術史大觀』6000円也。これは対価以上のものを私にもたらしてくれる「はず」である。

(編注)今回も、文中どうしても表記出来ない漢字については類字あるいは類似の漢字を使用しました。
正確には陳「金」(金3つ)、張三「手」(縦棒頭出る)
主に名前に関する箇所であり、大意に影響は無いと思われますが明らかに誤字であるので注記しておきます。



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