ひかりきらめく夜の街、新宿を一筋の光が疾駆する。ブオン、と煙を吹いて止まったのは例のバイク便屋のモトクロスタイプである。不夜城とはいえ都庁前はウシミツ時、人影はおろか通る車も無い。
当然ここまでは昼間の爆走をさらに上回り、わずか数分での到着であった。起きて早々目を回しかけた恩田だったが、新宿に近づくと急に視界がクリアになり、道行く人々も輝くネオンも眺めることが出来た。バイクに慣れたか状況に居直ったか、とにもかくにも余裕が生まれたようである。そうなると、ちょっと楽しくなってきた。全くもって不本意なセッティングではあるが、「超人」になったことは事実である。どうせしがない遊び人、これで少しはマシな人生になるかも知れない。..少々古風な考え方ではある。
「どうやら都庁で間違いないようだな。ホラ、ボーッとしてないで、下りた下りた。」
社長の声に我帰り、バイクを下りると都庁を見上げた。初陣は首都としてのプライドを誇示するかのようにそびえ立つツイン・タワーが舞台。どんな大立ち回りが待っていることやら。
「どうやって入り込むんだ?」
「ん?そうだな..」
どこから調べてきたか、出掛けに礼子が渡したのは都庁の詳細な内部図面であった。社長はそれを眺めている。と、歩道の植え込みに潜り込み、ゴソゴソと地面を探る。??何だろう。およそ「超人」らしくない。
「良し、ここだな。..ちょっと周りを見ててくれ。」
「はあ?」
「人が来たらすぐ呼んでくれよ、特に警備員とかな。」
「何をする気だよ?」
「何って..あっこに入り込むための抜け道を、ね。」
「それ、マンホールの..」
「そう、ちょっと開けるからさ。待っててくれ。」
「おいおい..何だよそれ。仮にも変身してんだろうが。一気に屋上まで飛んで侵入、なんてのが定石じゃねえか。」
「そんなこと、出来る訳ないだろう。」
「そ、そりゃそうだとしてもさ。じゃ、受付を気付かれない早さで駆け抜ける、とか。」
「はあ。じゃあちょっと、試しに飛んでみなよ。」
「へ?」
「いいから、ジャンプ!」
思わず飛んでみる。足は空中から10センチばかり浮く。で、...着地。
「期待してるとこ悪いんだけど、変身したからってスーパーマンになれるわけじゃない。基本能力は普段と全くおんなじ。」
「な..何だよそれ。こりゃ単なるコスプレか?」
「まあガッカリするのはまだ早い。それより、見張っててくれ。」
再び草影に身を潜める社長。恩田は愕然として自らの勇姿を眺める。前と違い、バイク用のツナギが変容したコスチュームは、一見ライダースーツのようで格好いい、と言える。言えるがしかし..中身は変わり無く普通の人間とは..。それでどうやって悪なんかと戦えるんだよ?
「良し、開いたぞ。」
ガコン、と重そうな蓋の外れる音がした。振り向くと社長が腕をプルプルさせて蓋を持ち上げつつ、こっちを見ている。何とも情けない。
「さ、早く早く。入って入って!」
「ここに?」
「梯子がついてるだろ、それで下に降りてくれ。暗いから気を付けてな。」
「..はあ。」
とりあえず先に梯子を降りる。どうやら社長も後に続いたらしく、再びガコン、と蓋の閉まる音。
十数メートルは降りただろうか。降り切った先はだだっ広い地下通路だった。アーケード街のようにドーム型の屋根が左右に広がっているが、当然人影は無い。
「お、着いたか。暗いだろ、今明りをつける。」
「暗い?どこが?」
振り返り、社長を見た恩田はあっと驚いた。同じ様にライダースーツ風の変身姿をした社長だが、全身から糸状のものが出ていて風も無いのにそれがなびいている。というより触角のようにウネウネと蠢いていると言った方が正しいか。
社長は驚く恩田が気にならないようで、ローソクに火をつけると周りを照らし、恩田を見るとその驚いた顔に驚いた。
「何だどうした?ああ、急に明るくなったんでビックリしたか。」
「明るい?..元から明るいじゃねえか。それよりあんた、その糸みてえなのは一体何だよ?」
「明るいって?ここがか?」
「うわっ!今俺の事触ったぞ!気持ち悪いな!」
「この明るさでそこまで見える?..ははあ、そういう事か。」
うなずいた社長は急に明りを吹き消した。
「どうだ?俺が見えるか?」
「ああ、見えるけど。」
恩田の視界では、明るさは全く変わっていない。
「そうか、そうなんだ。」
「一体何だよ。」
「君の力が分かったってことさ。君は目だ。」
「目?」
「そう、変身した時に一箇所だけ能力が突出する。君の場合は目が人並み外れて良くなるんだな。」
「って、普通に見えてるだけだぜ。」
「それが特別なんだよ。考えてもみろ、ここは地下で、唯一光が入るマンホールはさっき俺が閉じた。まして今は夜中だ。どうして見える?」
「そうか..そ、そういえば何か妙な感じだな。俺には昼間と同じように見える..」
思わず辺りを見回す。確かにここは地下道。光が差し込んでいる様子は無い。しかし、恩田の目には社長はおろか壁のシミまで見えている。遥かに続いているこの通路にしても、その気になればどこまでも見通せそうだ。つまり、新宿に来て急に視界がクリアになったのは、変身後の特殊能力によるものだったのである。
「俺は残念ながら全く見えないんで、明りをつけさせてもらうぞ。」
再び社長が火を灯す。
「眩しくないか?」
「いや、別に..」
「ハレーションも起きないとは。いや全く、暗視装置よりよっぽど高級だな。すごいもんだ。」
「これが何に役立つんだ?」
「..さあ?」
「さあって..あんたの親父が開発したんだろ、何か目的があるんだろうが。」
「どうかねえ..まあ君が目、ということで、どうやら改造された人間は、身体の一部がパワーアップする事ははっきりした。」
「あんたは何だよ。」
「俺かい?そういえばさっき気になったみたいだったな。俺はこれ、さ。」
全身から出ていた糸が瞬時に引っ込む。と、次の瞬間ブワッと(ワサッと)生えてくる。そのままグルングルンと回転する様は歌舞伎の連獅子のようだがこの場合、社長は首を回していない。
「な、何だよそれは。」
「毛、だよ。俺の場合は全身の体毛を伸縮自在に動かせるんだ。」
「はあ。それが何の役に?」
「まあそれは後のお楽しみ。これが結構役に立つんだよ。どれ、そんじゃそろそろ乗り込むとしようか。」
手にローソクを、毛に、図面を持たせ?て社長は地下道を歩き出した。恩田も慌てて後を追う。
(毛が役に立つ?目は..一体何になるってんだよ..)
どうも正義対悪の図式が見えてこない。ただいずれにせよ何だか地味〜な戦いになりそうな、嫌な予感がしてならない恩田であった。
社長が止まった。行き止まりだ。ただ上が開けている。吹き抜けのようになった天井は、高さ..(目の良い恩田には見える)数十メートルはありそうだ。
「どうやら都庁の真下に着いたみたいだな。」
「ここが?上には何もないぜ。」
「うん、知らないだろうけど、都庁は耐震構造で中心が空洞になっているんだよ。」
「へえ。」(この話はデタラメです)
「さて問題は、敵がどこにいるか、だな。連中の狙いは何だろう?都庁を崩壊させるとして..土台を狙うか?それとも上..か?」
社長に吊られて思わず天井を見上げる恩田。その時、恩田の目が異様な輝きを見せた。
日付変わって昨日の朝、新聞を見ていたはずの視界と同じように、恩田の視界は天井を突き抜け..さらに上へ。
「どうした?様子が変だぞ?」
「..見える。最上階だ..。馬鹿でかい..あれは何だ?..まとわりついてるのは..赤い光。一杯に..」
「それだ!!」
急に視線が移る。と、そこに満面の笑みを浮かべた社長が恩田の手を握り締めていた。左にローソク、右に図面、が浮かんでいる。実に妙な画である。
「その赤い光が敵の正体だよ。いやー、探す手間が省けた。いきなり役に立ったじゃないか!やっぱり仲間は多い方がいいな。そうか、連中耐震装置の要を破壊しようとしてるんだな。」
「どうでもいいが手を離してくれ!」
「おお、すまんすまん。」
「..で?どうやって上まで行くんだ?俺達の能力じゃ、階段でもないと行けっこないぞ?」
「はは。じゃあ、いっちょ俺の能力も見せてやろうかな。」
社長がチラと上を向くと、毛が一斉に天井に向かって..天井の近くにあるバルコニー風の物見台に向かって伸びていき、絡まった(目の良い恩田には以下略)。
自分でその毛を引っぱると、満足そうにうなずく。
「大丈夫そうだな。じゃ行くぞ。」
「どこに?」
「上に、だよ。」
いきなり恩田を抱えると、二人の体は宙に浮いて..。すごい勢いで昇って行く。たちまちその、バルコニーに降り立った。つまり毛が縮んで移動出来た訳だ。
「どうだい?あっという間にここまで来たぜ。」
「あー、びっくりした。..でもこっから先は無理じゃねえか。いくらなんでも天井を突き破るってのは出来ないだろ。」
「そりゃそうだ。ここからは階段で行くしかない。」
「どこにあるんだよ?」
「この隣さ。非常階段がある。」
図面を眺め、悦に入る社長。しかし..ドアがある。
「..カギが掛かってるぜ。駄目じゃん。」
「ここも、これが役に立つのさ。」
毛がドアノブの鍵穴に吸い込まれるように入っていく。と、カチャリ。鍵の開く音。
「これで問題無し。色々使えるんだよ工夫次第でね。」
「そんなら最初から、裏口なり何なりから入り込めば良かったんじゃねえの?わざわざ地下に潜らなくたってよ。」
「鍵を開けるのは簡単だけど、そこに監視カメラとかが付いていたらマズイだろ?それに、シリンダー式なら多少複雑でも問題ないが、電子ロックは手が出ない。..図面にはさすがにそこまで載ってないからね。」
「..ここの鍵がそれだったらどうするつもりだったんだよ。」
「そこはまあ、ご都合主義ということで。」
..墓穴を掘った。
「よし、着いたぞ。最上階だ。」
「ちょ..ちょっと休ませてくれ..」
階段を昇ること十数階。特殊能力の発動によってそれなりにテンションの上がった恩田だったが、ここへ来てすっかりトーンダウンしてしまった。何しろ疲れた。目がいいだけで、他は全く普通の人間。まして座って一日が終わるパチプロなら、運動不足も甚だしい。
「何だだらしないなあ。」
そういう社長はさすがガテン系、元気ハツラツだ。
「これから戦うのか?..持つかな俺。」
戦う前からこの様では、これから起きる事についていけそうにもない。
「戦う?..はは、そんな派手なことは無いよ。連中を見つけた時点で仕事はほぼ終わりさ。」
「だって相手は悪なんだろ?」
「悪と言っても俺達が相手にするのはただの機械だよ。」
「機械?」
「百聞は一見にしかず。まあ見てみなって。」
社長がドアを開ける。と、そこにはさっき見た通りの光景が広がっていた。
だだっ広いフロアの中央に、巨大な円錐形の重りがぶら下がっている。そして、そこに無数の赤い光がびっしりとまとわりついている。
「これは?」
「この馬鹿でかい重りがバランスを取って、地震の時に衝撃を吸収するんだよ。あの赤い光が我々の敵。連中はこの重りを下に落として、崩壊させようとしてるんだな。」
「..動いてる。」
「さすが、目がいい。そう、あの一つ一つが機械なんだよ。俺は虫って呼んでる。体長1cmにも満たないが精密な機械で、ああやって命令通りに吊っているワイヤーを切断しようとしてるんだな。」
「じゃ、早く止めないと!落ちたら俺達も巻き込まれちまうじゃないか!」
「まあまあ、慌てるなって。連中の計画は成功した試しが無いんだから。..あれだけぶっといワイヤー相手に、虫がどんだけ頑張っても1日2日じゃ切れないよ。どでかい悪だくみをする割に、行動は水滴が岩を穿つみたいな悠長な事をしてるんだよ、俺達が相手にしている悪ってのは。」
「でも、気付かなければいつかは..ってことだろ。」
「そう。でも成功しない。何故だかその前に俺が見つけちまうんだ。ここら辺が正義と悪の厳然たる違いなんだろうな。」
「..で?どうやって退治するんだ?このまま黙って見てる訳じゃないだろ。」
「そりゃそうだ。じゃ、そろそろ始めるかな。」
社長は明りを消した。
「暗くしないと虫がはっきり見えないんだ。まあ君にはどっちでもいいだろうがね。」
そう言うと座り込んでしまった。じっ、と虫たちの方を眺めている。すると全身に漂っていた毛が一斉に虫に向かっていった。毛が突き刺さると赤い光が消える。全体の1割程であろうか。で、今度は下に落ちた虫を箒の要領で集めていく。
「さ、これ持って。」
暗闇のせいであらぬ方向に差し出されたものは...ゴミ袋。
「中にスコップ入ってるから。全部集めてネ。」
「..な..な..」
「いやー、人手があるってのはいいもんだね。俺なんか今までずっとこれ、一人でやってたんだからさ。前に高速道路の高架下でこれやった時なんか、車を避けてチマチマチマチマ..明け方まで掛かってさ。あれ傍から見たら浮浪者がゴミ漁ってるように見えただろうなあ。いやあの時はツラかった。」
「冗談じゃない!これが正義の仕事かよ!?」
「そうだよ。いいかい?例えクズ拾いのような作業が全てだとしても、だ。君は今、都庁崩壊を企んだ悪を始末している訳だよ。これは事実だ。誰も褒めちゃくれないが、立派な仕事だよ。」
妙にキッパリそう言い切られると、反論が浮かんで来ない。確かに、目がいいだけの今の自分に、出来ることはと言えばこれくらいである。
しかし..しかし。砂をスコップで掬っては袋に詰めるような作業。気分は隠滅としたものだ。
黙々と二人の戦い?は進み、全体の半分ほどが集まった時だった。ここでようやくそれらしい展開が訪れる。
今までベタ凪のようだった安穏とした雰囲気が少し、変わった。顔を上げた恩田の目に、一箇所だけ、青い光が見えたような気がした。その光はすぐに赤い光に飲み込まれる。そして、光は徐々に形を作り始めたのだ。
「何だ?」
変化を察したのは恩田だけではなかったようだ。今や誰の目にも、その光は意思のある生物のような動きをしていることが見てとれた。CGの処理落ちみたいに妙にカクカクした所はあるが、紛れもなく無数の赤い光は1個体を形成していた。そいつが、社長を目がけて腕らしきを振るってくる..!
「ヴッ!」
うめき声を上げた社長が秒殺ノックアウトされたことは、毛が一斉に落ちて動かなくなったことからも明白だった。瞬転、別の腕が恩田に向かって振り下ろされる。
「ガイン!」
これはその腕が恩田に避けられ壁にぶつかった音。元は機械だけあって、金属音である。しかし痛がる様子は勿論の事、バラバラと崩れ落ちる事もなく。再び恩田を目がけて襲ってくる。
「おい!..おい!..おい!おい!」
人は夢中になると、単純な単語しか発せられなくなるようだ。困惑しきりの恩田が声を上げる度に、振るった腕がうなりを上げて目の前を掠める。ことごとく避けられているのは身体能力が高いからではないのだが、その訳を考える余裕は無い。とにかく必死で突如迫り来た危機から逃れているだけだ。
怪物は、倒れたままの社長には目もくれず恩田を追いかける。恩田は逃げ続ける。フラットなフロアで、障害となるものは重りしかない。結果的に重りを中心にグルグルと追い駆けっこをする形になっている。少し考えると、この怪物は本来重りを狙っていたのだから、強大な力を手にした今、恩田など追いかけずに直接ワイヤーを襲えばいいのだが、どうやらこの形態になっている間は、邪魔者の排除が最優先事項となっているらしい。
などと分析している内に、何周しただろうか。
「恩田くん!ストップ!そこで止まれ!」
いきなりの社長の声。思わず止まると目の前に怪物が..!
「ギシッ!」
軋む音がして怪物が急に止まった。体は恩田に向かって動こうとするが、見えない鎖に縛られたように動けないでいる。おっと、見えないは恩田にとって禁句だった。鎖ではなく、縛っているのは毛、である。
「あんた、いつの間に?大丈夫なのか?」
「いいからまず、動くなよ。奴が君を追っているから、動きを止められるんだからね。」
つまり重りを支点にして、毛を絡ませているのである。逆に動けば動けるのだが、この怪物にそんな頭は回らないらしい。ひたすらに目の前の恩田を目指している。
ただし、重りは重いといっても吊られた物体である。怪物が動くと重りもわずかながら揺れている。ワイヤーのダメージがどの位かは分からないが、このままでいると怪物に倒される前に都庁が崩れ落ちてしまう。
「..という訳で、どうしようか。参ったな、まさか攻撃してくるとは。こんな展開は予想してなかったよ。敵も成長してるんだなあ。」
「悠長な事、言ってる場合じゃないだろ。武器になるものなんて何も無いし、どうすればいいんだよ。」
「うーん、結局のところは虫の集合体な訳だろ。集めてる核があるってことになると思うんだけどな。それを壊せば、バラバラになると思うんだが..」
「核?..そういえばさっき、青い光を見たぞ。連中は赤ばっかだろ。それじゃねえか?」
「おお、それかもな!どこにあるんだ?」
恐ろしくて直視するのは避けたい所だが、見るしか仕様が無い。ソーッと、眺める。
「いたいた、中心..ど真ん中だな。でも赤い光が覆ってる。」
「中に紛れているか..となると、どかすしかないな。」
「どうやって?」
「俺の力で、邪魔な虫は掻き分けてやるさ。青いのが見えたら、君がそれを壊せばいい。」
「俺がやるのか?」
「やりたいのは山々だけど、俺の目にはその青い光はどうやっても見えないだろう。何、握るだけで簡単に潰れるさ。」
「そんな上手いこといくかな?」
「勝負は一瞬、それで駄目ならやられるだけ。」
「何だよそれ!」
「あんたもパチプロなら、一か八かは経験してるだろ。行くぞ!」
一瞬にして毛が引っ込むと、怪物は待ちかねたように突進してくる。一旦引いた毛は瞬時に今度は怪物に向かって一斉に伸びていく。掻き出されるように赤い光が散っていくと、あった!青い光だ!と思う間もなく怪物が恩田を包む。やられた、と思った時には全てが一瞬の内に終わっていた。痛くない、と恩田が気付いたのは怪物が霧のように消え失せた後だった。自分は死んだ、と思った。この0コンマ秒の間に恩田の手は見事青い虫に「当たって」いたのだが、手が動いたのはさっきも言ったように身体能力のそれではなく、目が、青い虫を捕えると同時にその軌道を神経に正確に伝えたことに拠る。つまり反射的に差し出した手が、青い虫を潰すでもなく勝手にぶつかって自滅しただけなのだが、ともかくリーダーを失った集合体はあっさりと結束を無くし後はただ慣性の法則に従ってバラバラと夕立ちのように横なぐりに恩田に当たって落ちたのだった。
生きている、と知った時の感覚は、大当りが確定した瞬間のパチンコのそれに似て..猛る。強烈にアドレナる。
「やれやれ、良かったな。」
対照的にあくまで泰然とした社長はさすが社長たる由縁。恩田は体の震えがそのまま口調にも現われていた。
「あんたの、さ、一か八か、っての、...、気に入ったぜ。そうだ、そうだよな、確率はいつだって2分の1だ..」
帰りは一気に飛び降りて..という訳にはいかず、延々と非常階段を下り、地下道を通って..シャバに返り咲いた時には明け方近くなっていた。それにしても、全て始末したはずなのに変身したままなのは何故だろうか?
「ああ、一応能力は最後まで使えた方がいいからね。いつもこうやって一匹だけ残しておいているのさ。」
と、一本の毛に絡め捕られていた虫を指で潰したところで、ようやく変身が解ける。
「これで作業は終了。いやいや、ご苦労さん。」
徐々に現われつつある朝日に向かって大きく伸びをする社長。恩田にとっては変身する心配の無くなった今が、逃げ出す絶好のチャンスである。
「さあ、戻ろうか。礼子ちゃんが朝飯を作って待ってるぞ。」
「..いや、俺、帰るわ。」
「...そうか。そうだな、今回は義理もあって手伝ってもらったが..有難う。また、変身して困るようだったら店に来てくれよ。俺も親父が見つかり次第、元どおりになれる方法を聞き出しておくから、さ。」
「それはいいよ。」
「え?」
「俺もやるって言ってんだよ。正義の大掃除をな。」
「..ほんとか!?助かるよ!」
「へへ、俺たちゃ街の掃除人(スイーパー)、ってとこだな。なかなかいいんじゃねえの。」
折しも立ち昇る太陽をバックに、ガッチリと握手を交すベタベタな二人の画を写してこの回終わり。