時刻は9時15分。
都庁を見上げる場所にある、オープンスタイルのファストフード店に恩田譲はいた。スポーツ新聞を読んでいる。といって1面を飾る昨日のプロ野球結果に興味はない。いわゆる「娯楽面」にある、「パチンコ新装開店案内」を見ているのだ。今日はここを見る為だけにキオスクで130円払った。新宿西口のとある店舗の新規開店情報が載っている。財布から、その店の優先入場券を出す。記事をもう一度眺めてニヤリ。要するに単純に、自己満足の世界である。
そのまま「新台情報」に目を進めると、寝不足も手伝ってか眼が虚ろになる。新聞の字がボヤける。と、視線は何故か斜め上方の都庁にズームアップしていく。都庁を突き抜け内部に入り込む。ビルの裏側、鉄筋部分に至る。そこでは無数の小さな虫のようなものが蠢いている。それらは皆、中心に赤い光が明滅している...。
「んん?」
思わず我に返ると、新聞の文字に視点が戻る。新聞を読んでいる姿勢に変わりはない。では一体、今の都庁の映像は..?
「..夢でも見たかな?..さーて、と。」
腕時計を見ると、時刻は...あれ?
その腕が、全身が、プロテクターに覆われている!恩田は慌てて立ち上がると、自分の姿を眺め回す。どっからどう見ても、こりゃヒーローだ!
その姿に気付いた周りの客が、さわさわと騒ぎ始める。
「なんだ?あれ?」「ショーでもやんの?」「撮影じゃないか?カメラは?」「えーどこどこ?」
「おーっ!!?何だ何だ?どうなってんだこれ!?」
周囲の反応に気付いたものの、自分自身がまるで状況を把握していない。
キョロキョロと辺りを見回すヒーローに、ビジネスマン達は苦笑を禁じえない。
「おーい、ここは後楽園じゃないぞ?集合場所間違ったんじゃねえの?」
その野次に、朝の一時どっと湧く。
「何だとこの野郎!他人事だと思って..この..クソ、ぬ、脱げねえ!」
ヒーローが一人、ひたすら悶えている。一向に何事も起こらないので周りは興が覚めて、徐々に社会人としての日常を取り戻している。焦り捲っているのは当の本人、恩田だけだ。
「おい!誰か!ドッキリだろ!?助けてくれよ!おい!俺の声が聞こえないのか?頼む!誰か!!」
朝のラッシュで込み合う目の前の幹線道路上に、一台のバイク、便が急停車すれば、後続のバンがクラクション鳴らしまくりで追い抜くのは当り前。だが都心の朝の常事で、誰も注意を払ったものはいない。バイク便のライダーは、ファストフード店で苦悩するヒーローを凝視しているのだが、メットで視線は隠れているから恩田は気付く由もない。
彼はバイクを降りるとヒーローに近づく。突然腕を捕まれる恩田。
「な、なんだお前!?」
「いいからいいから、ちょっと来て、ね。」
謎のライダーは存外気さくに話しかける。
「俺の声が聞こえるのか?なななんだよこれは!」
「俺も同業だよ、あんたとおんなじ。」
メットを開けると、彼もヒーローの面?を見せる。
「..っお、お前か?俺にこんなの着せやがったのは!」
「着せた?ははあ、初めてか。フフ、あんた変身したんだよ。」
「へ、変身?変身したって?」
「詳しい話はあと、あと。ささ、後ろに乗って。目立ちすぎだよこれじゃ。」
いつの間にかバイクの所まで引っぱられている。
「何言ってんだ?何で乗らなきゃならねえんだ!」
「戸惑うのは分かるんだけどさ、それね、ここじゃあ戻らないんだ。」
「戻らない..」
「どうして変身したか、知りたくない?どっちにしろ、このままじゃあいられないよねえ。」
「そりゃ、そうだけど..」
完全に相手のペースにはまっている。
「さ、乗って。これ以上人目に触れるのはマズイんだよ。」
どうもしようもない。恩田は否応無しに乗せられる。バイクは爆音とともに新宿を走り去る。
都心を突っ切る事わずか十分。バイクは滅茶苦茶なスピードで疾走し、都内ギリギリ荒川の手前、1軒の店の前で止まった。
「な、なんだよあの速さ..死ぬかと思った。」
恩田はフラフラと降り立つと、思わず泣き言を漏らす。
「チューンしてあるからね。その気になりゃもっと飛ばせるよ。ま、昼の都内じゃあれくらいが限界だ。しかし..若いねあんた。」
「ん?あれ?も、戻ってる...」
気が付くと元の姿を取り戻している。いつの間に..。
「さっきのは、夢..」
「残念ながら現実、さ。」
「ま、いいや。元に戻ればこっちのもん..」
元気まで取り戻した恩田は時計を見る。時刻は9時..45分。
「ゲ、まずい!ちょ、ちょっとすぐ新宿に戻ってくれよ!」
「ん?何か用だったのか?あきらめるんだな、今新宿に戻ればまた変身してしまうよ。」
「そんな!新装なんだよ、入場券も持ってんのに、冗談じゃない!」
「新装?..パチンコか?ハ、そんな話なら、明日でいいだろ。」
「今日じゃなきゃ意味ねえんだよ!こっちだって生活賭けてんだ!」
「生活?..あーあ、ヒーローには程遠いロクデナシか。せっかくいい大学出てんのに、何やってんだかな。」
「おい、何でそんな事知ってんだ?っと、まあいいや、とにかく頼むよ。早く俺を新宿に..」
「あきらめるんだね。あんた、もう普通の生活は出来ないんだから。」
「だからどういうことなんだよ!」
「まあま、落ち着いて話そうや。」
堂々巡りを中断し、男はバイクを下りると店のドアを開けた。
『バイク便 韋駄天』と看板されたその店は、喫茶店を改装したような造りになっていて、事務仕事をしている女性の机は元々カウンターだったようだが今の恩田にそれらを観察する余裕は無い(から以下省略)。男はその女の子に声を掛ける。
「ただいまー。おーい、礼子ちゃん!すまないがコーヒー二つ。」
まるで喫茶店のやり取りだが、返ってきたのは雷だった。
「あ、社長!何やってんですか!さっきの配達、先方からまだかって電話きてますよ!!」
「おう、そのことなんだがね、チト空いてる奴戻してくんないかな?俺は今から急用があるんだよ。」
「急用!?仕事の他にどんな用事があるっていうんですか!!ふざけないで..」
手にした書類を投げつけそうな勢いの彼女−礼子に素早く近寄り、両手で制す。
「ままま、礼子ちゃん。ほら例の..スクランブルだよ。さっき反応したんだ。」
すると急に態度を変える礼子。
「え!?どこです?」
「えーと新宿の..おそらく都庁だな、あの距離でいうと。」
「都庁。分かりました、図面あげておきます。」
即座にパソコンに向かう。
「ありがと。ついでに配達の手配もよろしくね。」
「了解です。..そちらは?」
後ろでやり取りをボーッと眺めていた恩田がようやく舞台に上げられる。
「そうそう、彼。名前は..?」
「はあ?..恩田ですけど。」
「恩田くん。彼、俺と一緒なんだよ。やっと見つけたね。」
「へえ..ほんとにいたんですね。恩田..何さんです?」
「え?ゆ、譲..」
「おんだゆずるさんね、私は矢島礼子。よろしくね。社長、コーヒーは自分で入れて下さいな。」
彼女は挨拶もそこそこに、キーボードを叩きながら電話を掛ける。
「..あ、山田くん?悪いんだけど一回戻ってきてくれる?うん、急ぎなのよ..え?無理?...」
「さあさ、そっちに座っててくれたまえ。」
改めて、男が声を掛ける。ヘルメットを脱いだ彼−社長と呼ばれる−は、こちらも変身が解けており、髭面が特徴といえば言える程度の普通のオッサンだった。
恩田は展開についていけず、頭が混乱している。
「さて、何から話せばいいかね..」
社長がコーヒーを持って対面に座った瞬間、時計が時報を伝える(ピピッ)。恩田は夢から覚めたように自らの重要案件を思い出すと、同時にそれがすでに過去になった事を悟った。
「10時。終わった...」
思わず天を仰ぐ。
「10時?..ああ、開店かい?まあまあ、今夜中に片がつけば、明日には行けるさ。」
「今日じゃなきゃ駄目っつったでしょ!?これ、今日の入場券なんだよ!明日の分は無いんだからさあ。あーあ!」
「だからどっちにしろ無理なの!あんたあの姿でパチンコ打てる?新宿にいたらあの格好のまんまだよ?」
「だからどういうことなんすか!さっきのは!」
「..君ね、ヒーローなんだよ。」
「はあ!?」
「博士に勝手に見込まれた、悪を倒す正義の味方なの!あんたと俺は!」
「どどどういうこと?」
激動の瞬間から1時間経ったが、状況は一向に飲み込めない。飲み込めたのは出されたばかりのコーヒーである。一気に飲み干すと、あとはお冷やを3杯立て続けに。やたら喉が乾く。
「社長、検索済みました。」
「おう、有難う。」
礼子が社長にプリントを渡し、戻っていった。
「どれどれ..おっ、94期か。ギリギリだね。..やっぱり、所在不明になってる。こりゃあ運命の出会いだね。いや奇跡だ奇跡。」
「何です?それ..大学の学生名簿..?」
「そ、これは帝応大学工学部、片桐ゼミ受講生の名簿だよ。」
「片桐?..あ、機械工学の。」
「そう、覚えているようだね。」
「顔は覚えてないけど。そ、そんでそれがあの変..身に関係してる?」
「そう、あの教授は自分の生徒に改造手術を行っていたんだ。勿論気付かれない内にね。」
呆然とする恩田、無理もない。改造手術だあ?
「可愛そうだけど、選ばれた、って事になるんだよな。..君がそうだという事を、今に至るまで分からなかったように、博士がどういう基準で選んだのか、まるで見当がつかないんだ。名簿を元に色々当たっているんだけどね。残念ながら今の所は俺と君だけ。」
「あ、あんたも帝大の?」
「..うーん、違うんだけどね。まあいい、自己紹介もまだだったな。ぶっちゃけて言うとだ、俺の名前は片桐義人と言う。これで分かるかな。」
「片桐..あんた教授の!」
「そう、息子だよ。だから事情を知っているんだ。」
「ふざけんな!」
突如立ち上がる恩田。
「俺は赤の他人だぞ!お前の親父はどこにいるんだ!俺を元に戻せ!」
「それがさあ、俺がこの秘密を知って問い詰めたらどっか逃げちまったんだよ。俺も困ってんのさ。」
あっさりと怒りの持って行き場を失い、恩田はヘナヘナと座り込む。
「..じゃ、俺の体は..」
「そ、敵が近くにいると、勝手に変身してしまう。因果な体になっちまったもんだよお互い。」
暢気にコーヒーをすする同じ境遇の片桐−バイク便屋の社長、である。
「敵..って何だよ?」
「我々が正義の味方なんだ、当然悪の組織もあるさ。」
「本気で言ってんのか?」
「事は結構深刻だぞ。まあ今晩早速遭遇する事になる。詳しい話はその時にでも..」
「はあ?..俺も行くのかよ?」
「勿論!今まで一人でやってきたけど、これでようやく少しは楽になるなあ。」
「お断りだ!」
再び今度はこの場を離れんと立ち上がる。が、急に力が抜けて崩れ落ちる恩田。
「俺は慣れたもんだが、始めての君には少々キツかったかな?」
「..どういう..事だ?」
「変身は体力を消耗するんだ。腹、減ってるだろ?」
そういえば、確かに。すごく。もの凄く。
「礼子ちゃん、ちょっと店屋物取ってくれないかな?俺と彼とで、10人分。」
「ご自分でなさって下さい。」
「やれやれ、労ってくれないなあ。」
胃がムカムカするのはさっきすきっ腹でコーヒーを飲んだせいか。そういう事、分かってんなら普通はポカリとか、スポーツ飲料出すだろ。と愚痴を言ってもしょうがない。それよりも、一刻も早くここから逃げ出さねば..。しかし、社長が電話でオーダーしている食べ物の名前を聞くだけで、食欲に勝てなくなってしまう恩田だった。
30分後..5人分の昼食を平らげた後は、モゾモゾと腰を動かしトイレを所望。食事、排泄ときてすっかり脱力の彼に、礼子が優しく声を掛ける。
「疲れたでしょ?奥に仮眠室があるわ。ゆっくりしてって。」
その声に欲も得も無く導かれる。
今時分は新店にてワッショイワッショイのお祭り中..と、つい2時間前まで確信していたのが、一銭も使ってないのに昼前にご就寝..である。
半日過ぎて時刻、23時。ようやく起きてきた恩田に、礼子が
「スッキリした?よく休んだら、一働きしてもらわないとね。」
「...」
返す言葉が出てこない。社長止めの一言。
「ヤクザな生活してたって、一宿一飯の義理ってのを忘れてる訳じゃないさ。」
「...」
「さあ、行こうか。」
残念ながら、非日常の世界に引きずり込まれたようである。
(続く)