GRANDSTAND PLAY Vol.24 (03.12.12)


「レスラーたちの芝居がかった闘いぶりは、ときに突飛すぎて満場の笑いを誘ったが、計算上の演出とはわかっていても、彼らの健闘ぶりにはついつい興奮させられた」(ニーリ・チェルコフスキー)
そこにはなんの演出もなかった。試合を終えたレスラーが巡業バスに乗り込むのを見届けようと熱心なファンが残っている。そのなかには車椅子の少年と付添の母親もいた。トランクを片手にのしのしと現われた悪役レスラーにサインをねだる者はいない。
車椅子の少年も多くのファンと一緒にレスラーからは一定の距離を保って見つめているだけだ。けれどもカウボーイ用のブルロープを振り回し、客席にパイプ椅子を投げつけていたその大男は、少年を見つけると自ら歩み寄り、片ヒザをついて、リング上では見せなかった人間らしい笑顔で少年に近づいた。「よく来てくれたな、ボーイ」
大男のグローブのような分厚い手を握り締めたままの少年は、ただ微笑んでキラキラと目を輝かせている。少年の後ろでそれを見守っていた母親の目には光るものが溢れた。その数日後のスポーツ新聞にこんな見出しがあった。「ギガンテス、急死」帰国を前に成田のホテルで帰らぬ人となった2メートルの大男の早過ぎる死を報じる記事だった。テンガロンハットに長髪と口ひげ。西部の荒くれ野郎がみせた束の間の優しさを私は決して忘れはしないだろう。

「価値ある情調(ムード)を伴ってこそ知識も、思想も、ないし情緒そのものも始めて身にしみる経験となる」(阿部次郎)
22年聴き続けてきたカントリー音楽も、近ごろはてんで耳に入らなくなってきた。カウボーイの生活や安酒場での失恋を歌うばかりがカントリーではない。カントリーはごく普通の人々や生活の中にもドラマがあることを教えてくれる音楽で、わたしはそれを求め続けてきた。
しかし、わたしの中でなにかが変わり始めている。音楽は生活に欠くことのできない常備薬であり、なくてはならない日々の合わせ鏡だ。常に一人のわたしとしての気分の代弁者でなくてはならない。それなのにここ数ヵ月、わたしの頭痛は治まらず、鏡の中の顔は表情を失い、気分は塞ぎ込む一方なのだ。
音楽のない日々が続く。静寂。そこに響くのはわたしの心に育つ都会の喧騒だ。ジャズだ。真夜中にジャズは聴くものを孤独にしない。いまそれを手にしなければ後にも先にも人生の喜びには出逢えないのではないかという希望としての不安。苦痛ではない珈琲の苦みのような愉しさ。もの書きとしての才能のなさを補ってくれる音楽がわたしには必要なのだ。
ソングライターの培ってきた音楽がカントリーならば、どんな音楽の助けを借りてもわたしの書くものはカントリーだ。この夜明け前の長雨に、わたしはただジャジーなカントリーを奏でたいのである。

「私のいってることを全然理解できない?安心して、あなたは日本の社会に順応していけるまともな人なのよ」(杉本彩)
杉本彩にはいい意味で参った。ただのスケベ心から雑誌『月刊杉本彩』を買ったのだが、はっきりいって彼女の言葉はその官能的なグラビア写真より魅力的であった。言葉の影響力や説得力という点では三輪明宏と肩を並べる存在だとわたしは見ている。
ある男性の映画批評家が「一緒に映画を観てくれる女性を募集します。ただし言葉を持っている人に限る」といったが、彼女ならまず間違いない。きっとその批評家を討ち負かしてしまう程の批評眼や論理を展開するだろう。
杉本彩はまず愛というものを知っている。誕生日になにが欲しいかと聞かれ「あなたの才能をわたしのために捧げてちょうだい」というのだ。「自分のためにも戦えない人間が多いのに、人のために戦える人間に出会ったら、きっと惚れてしまうかも」と答えている。自分がそういわれたらわたしはどうするだろう?恥ずかしながら彼女へのクリスマスプレゼントのおまけとして、絵を描いて贈る気でいるわたしだが、なによりも、表現者として自分に妥協なき作品を創り出すことが前提であるのは当然だ。
仮に杉本姉さんに絵を贈り、それを破り棄てられても「いまの世の中には不満だらけ」という彼女とは一時でもシンパシーを感じられるだろうという自信はある...。

〜
失敗を悪としない日本人の美意識はこの際、捨て去って頂きたい。あなたがプロスポーツの熱心なファンであるなら尚更だ。ベガルタ仙台のJ2降格が決まったとき、多くのサポーターが「頑張った結果だから仕方がない」と溜め息をつき、マスコミは「頑張ったことがすべて」と言い切った。アマチュア主義のオリンピックならそれも許されるだろう。「頑張れ、ニッポン」この「頑張れ」というのが実は曲者なのだ。「頑張れ」とは「一生懸命やれば失敗してもいい」という意味だ。それは正論である。失敗のない人生など皆無であり、失敗なくして成功はあり得ない。けれども、プロスポーツの世界で負けは許されてはならないもの。負け、即ち失敗は悪である。拍手を送るだけが応援、サポートではないのだと胆に命じるべきである。(但しゲームの過程には失敗はいくらあっても構わない。むしろ失敗の要素こそがその競技の魅力である場合が多いからだ)

クリスティーナ・リッチの才能を憎む。私は彼女の鬼気迫る迫真の演技にすっかり滅入ってしまった。映画『私は「うつ依存症」の女』は私にとってNG作品。認めたくないのだ。映画を観て損した気分にさせるのは大罪だ。第一、タイトルの『私は』というのが気に食わない。ある意味、というより確実に現代人は誰もが「うつ依存症」なのだ。それをお前だけが「うつ病」を盾に逆ギレてんじゃねぇーっと言いたくなる。アル中で麻薬ジャンキー、自分に弱い駄目な娘のちっぽけな青春白書。けれどもハーバード大出身で、後にベストセラー作家になる娘の実話を元にした物語。結果として「うつ依存症」の娘に文才があったが為に、私はその彼女のどうでもいい人生を味わう羽目になってしまった訳だ。そしてクリスティーナ・リッチは私のトバッチリを受けてしまった。今後どんな映画を観ても彼女を「うつ依存症の女」としてしか観れないだろう。
 

『国家を棄てよ』

15年前からランディ・トラヴィスは愛を歌っていた。

「我が愛は
 どんな痛みをも癒し
 河より強く
 松の木茂る頂より高い

 十二月の雪より
 春の窓辺に立つ駒鳥や
 夜鷹の歌声より
 我が愛は清いのです」

今では彼は、愛と神を歌う。

「ある寒い曇りの日
 オイラが空を見てると
 天国から母ちゃんを迎えに
 車がやって来た

 切れた家族の輪は
 また繋がるでしょうか?
 空には そう空には
 すばらしい土地があるさ」
(訳詞=なぎら健壱)

9・11のテロ事件以降、愛や神、もっと具体的にいえば愛国心が盛んに歌われるようになった。それがアメリカ人のアイデンティティなのだから当然だ。自分を主張するのは構わない。ならばアメリカよ、他人の主張に聞く耳を持て。アメリカよ、懐の深さを見せろ。あなたが愛と神を歌うなら、その忠誠の名のもとに攻撃的な国家を棄てよ。そのとき愛は深まり、切れた家族の輪は繋がるだろう.....一生あり得ない話だ。



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