GRANDSTAND PLAY Vol.16 (03.08.29)


ファッションとはカルチャーである  石垣 ゆうじ

「仙台のファッション文化は死んでいる」のだという。全国的にも無視されつつあるというその要因は「雑誌やテレビの影響をそのまま受けて、右に倣えの格好になっている若い人たちが多いし、デザインよりもブランドの知名度を重要視する`商業主義`が浸透しちゃっている」からだという。(以上、『センケイ・ワン』誌より、渋谷昇侑さんのコメントを抜粋)
ファッションに疎い私がこの件について語る資格はないが、ひとつだけこだわりつづけている要素とブランドがあるので紹介させて欲しい。
その日に身につけるもの、上着、下着、もしくは帽子にバックの類いも含めれば、私は必ずひとつは『パタゴニア』(アルパインやサーフィンを始めとするアウトドア、スポーツウェア&ギアメーカー。環境保護活動にも積極的に取り組んでいる)の製品を愛用している。
『パタゴニア』と私の理念が合致していること、それを着用することで、より自分らしくいられることが選択理由である。
私が目指しているのは「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」というアントニオ猪木の常在戦場の精神である。
カフェでお茶を飲んでいるその姿で、ランニングに移行できる服装。仕事場(梱包作業やフォークリフト操縦・・をしていたが、先月退職)からデートに向かうのも、犬の散歩や山登り、寝巻に至るまで賄ってくれるスタイルが『パタゴニア』なのである。
私が身を崩して、橋の下の住人になっても、辛うじて社会的なプレッシャーからはまぬがれることだろう(?)。
私はファッションとして音楽を聴くのを嫌う。「この曲を歌えないと馬鹿にされちゃうから..」と流行歌のCDを買って帰るような人種を最も憎む。
音楽というのは生活に欠かすことの出来ない私達のスタイルだ。それは衣服においても当然おなじだ。そのことを先にコメントを紹介した渋谷さんは良く分かっていて「ファッションというのは見れば理解できる、最も分かりやすいカルチャーだ」といっているのである。
街を行き交う人々−若者に限らず、お洒落に気を配り、奇抜さを装う人々もファッションに無頓着そうな人々も私には皆、おなじに見える。
まぁ、私に語る資格はないのだが..。
 

Hot Stuff

行きつけの喫茶店のマスターから手渡された一冊の本がある。『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)がそれだ。果たしてマスターの意図するものは何だったのだろう?などと頭の片隅で考えながらも、その場で一気に読破した。私が大家の先生方を論じても仕方がないので気付いた事をいくつか書く。一つは、村上、河合の両氏は日本人として己の人生に真っ向勝負で挑んでいる事。ふつうなら良心の呵責と渡り合った末に、くたびれ果て、自分がかつては人生と格闘していたことすら忘れてしまうものだ。しかし、かの両氏は人間(あるいは日本人)としての民意、美意識に正直だ。そこに暴力性まで見い出している。私達が覆い隠そうとしているものの中に真実があることを知っているのである。それらが噴火し、やがて流れ出た溶岩が黒く凝固すると花が咲き始める。そう、それこそが私。個性というものだ。泥の中にパッと咲き乱れる蓮の花だ。これは今の自分に「NO」と駄目だしして、過去を綺麗さっぱり葬ってやらないと咲かない花なのだ。「お前は正しい!孤立せよ!!」である。私の師、ターザン山本もいっている「自分をごまかすことは人生が八百長だ」と。



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