GRANDSTAND PLAY Vol.15 (03.08.21)


ゴールキーパーと自己表現 石垣  ゆうじ

映画の批評家から監督になった、ジャン・リュック・ゴダールについてジャック・リベットという人は『彼は最も独創的な、すなわち最も非模範的な映画作家』といったそうである。
『独創的とは非模範なこと』この言葉を聴いて私はサッカーのゴールキーパーを連想した。
足でボールをさばく競技において唯一、手を使うことを許された者。その生業は人の成功を阻むことである。11人のプレーヤーの中でただ一人ユニフォームの色が違うのもゴールキーパーだ。
私は人生の半分をゴールキーパーとして過ごしてきた。特に中学校の三年間は情熱を『独創的かつ非模範』なことに費やしまくった。そのせいか、競技者という側面からは未熟であっても、ゴールキーパー哲学は達観の境地に至っていたと断言できる。
ゴールキーパーは、いかに正確に強烈なシュートやカーブがかかったシュートをストップできるかが第一に問われるものだ。実際に現役のJリーグの選手も「それをごく簡単そうに見せるのが名ゴールキーパーの条件」だといっている。要は安定感が求められている訳だが..。な〜にいってんだって!!
私はほんとうに必要な最後のステップを踏まなかった。意識してそうしたのだ。つまり、ダイブしなくても処理できるシュートを、いかにも困難なシュートを弾き飛ばしたかのような印象を周囲に与えるのだ。
そのことでチームメイトからは「よくぞ危機を救ってくれた!」と信頼を寄せられるし、相手のストライカーへも、カウンターパンチを食らわしたかのような精神的ダメージを与えられる。
何よりも、試合を観ているものに喜びを感じて欲しかったのである。どうにも防ぎようのない弾丸シュートを私がただ見送ったって面白くない。絵にならないではないか?そんな時は精一杯カラダを伸ばし、思いっきり宙に浮いて見せる。どうやったら格好良くゴールを決められるか?私はそういうことを日夜研究し、実践してきたのである。
「お前が取れないならば仕方がない」顧問の先生がそういって私の肩を叩いたとき、私は心の中でニヤリとしたものだ。
15歳のゴールキーパーにとってサッカーは、自己表現の手段だったのだ。
 

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福島県立美術館で世界名作版画展を鑑賞してきた。そこで私はマティス、ピカソ、シャガール、ウォーホル等に優るとも劣らない才能に出逢った。ジョルジュ・ルオーである。彼はマティスと同時代の画家でフォーヴィズム=野獣派と呼ばれる強い彩色と荒々しい筆使いが特徴。今迄これだけのアーティストを知らなかったのだから、私もまったくの無知である。しかし、自分を呪うことはなかった。この情報社会において、何の予備知識も持たずに偉大な作品と作家に巡り会えた衝撃は、何物にも代え難い心の財産だ。80年も前の絵から精神の糧を得るという貴重な体験だった。話は変わる。井筒和幸監督の最新映画『ゲロッパ!』は収監間近のヤクザの組長を慕う子分達が、組長の恩に報いる為にジェームズ・ブラウンをさらって連れて来させようとする、ソウルフルなドタバタコメディだ。(西田敏行、常盤貴子、岸部一徳、他)邦画版『ブルース・ブラザーズ』の趣で純粋に楽しめた。この映画の成功は、本物ではなく物真似タレントのジェームズ・ブラウンを使った点だ。フェイク(偽者)をも肯定し笑いに変換する街、大阪を舞台に、等身大で、とってもお馬鹿な娯楽を提供してくれるのだ。



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