いま私に必要なもの 石垣 ゆうじ
ひと月、もしかしたらふた月の間、私は走ってない。長生きしたいとは思わないが、毎日調子良くやり過ごしたいとは思う。
第一に30分も河川敷をほっつき走っていれば汗がにじみ出て、血の巡りが良くなり、走るために生きているという錯覚に陥る。程良い充実感と共に思考回路が冴え渡るのがはっきりと分かる。
あっという間に見た夢を忘れてしまうように、ジョギングによって分泌されたアドレナリンの効果もそう長くはつづかない。
私は今ではすっかり腑抜けである。身体が重く、何かをやる前に疲れきってしまっている。ラジオを捻るとアマチュアのミュージシャンが歌っていたが、彼等のいいたいことのほんの少しも私は汲み取ってやることが出来なかった。ひょっとすると私はまだまともなのかも知れない。
今晩あたり久し振りにロードに出てみようかと思っている。時間が早過ぎなければ、我が物顔でダッシュを繰り返している高校の陸上部に遭遇することもない。
二日ないし三日に一度でもいい。定期的に汗を掻くことを覚えれば、書籍の詰まったダンボール箱から『まじめに生きるのを恥じることはない』(ジョン・ウッデン著)を取り出してこようと思うかも。
実際にその本を捜し当てると、先日購入したばかりのチャールズ・ブコウスキー著『詩人と女たち』がもう一冊そこにあることに気付いた。もう一冊あることには気付いたが、私は本の終盤に差し掛かっても、それが再読だとは気付いていなかった。クソッ。私には本当にジョギングが必要なのか?
日に13時間眠るのは気持ちのいいものだ。だが徹夜に匹敵する程、調子が悪くなる。むしろ40時間起きつづけていた方が目は冴える。(その分、頭はキレ易くなるが)
欧米ではスポーツ文化が進んでいて、疲労を感じた人ほど、ジョギングをするのだという。適度な運動が疲労物質を分解させる作用をもたらすらしい。
運動に限らず、私達の人生は、僅かな工夫(努力とはいいたくない)ひとつで晴れたり曇ったりするものなのではないか?
ならば私は運動着に着替え、ストレッチをし、水分を補給し、シューズを履き...。その前に宝クジのチェックだ!!
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遠出した帰り道、車窓を開け広げて走っていると物悲しさに襲われる。穏やかなカントリーソングと間違ったのではないかと思うほどの日差しとが、私の心の奥底にズレを生じさせ、その透き間にレイコの意地悪な笑みが浸透していく。彼女は私が溺れかけたのが可笑しくて仕方がないらしい。その悪戯な笑顔に過ぎ去りし夏の思い出を見た。眼下の青い海も潮騒も、潮の香りも、木漏れ日の光も、モノクロの世界へ奪い去られていく。盆祭りの花火が夏の思い出をひとつひとつ掻き消すように、記憶装置の闇深いところへそれは仕舞いこまれていくのだろう。波のうねりを掻いくぐり、大いに揺れ沈む客船で、恐怖をも弾き飛ばしてくれたあの笑顔がすでに懐かしい。と同時に、切なさを感じる。『思い出は最も甘美な苦痛のよう』とジェイムズ・テーラーは歌っている。(九月の草原)はかなき夏は、思い出の貯金箱だ。それを叩き割ったところであの夏は帰ってこない。むしろ甘美だが苦痛の伴う記憶が溢れ出してしまうのを恐れて、我々はセミの鳴き声にも耳を塞ぐようになるのだ。しかし私は午前4時半には目を覚まし、朝焼けとほんのり日に焼けたレイコとを乗せてひた走るのだろう。