GRANDSTAND PLAY Vol.9 (03.08.08)


定義せよ、打破せよ 石垣ゆうじ

あるブルーグラスミュージシャンに取材したときのことだ。
「ブルーグラスの定義とは?」との問いに、彼は「これはこうだと決めつけなくてもいい」と答えた。確かに。
私は定義づけが好きだ。
ジャズ、クラッシック、ロック、ソウル、R&B、ヒップホップ、レゲエにカントリー...。その部門、枠組みにはめてみる。本来ひとつで語れない、括れないものをあえて、「宇宙とは母である」などといいきってしまうのだ。
私はカントリー音楽のリスナーだから、純粋なカントリーが好きだ。と同時にカントリーを幅広く解釈し、この業界に留まっていることに、ムズムズして、今にも爆発してしまいそうなカントリーも好きなのである。
そのカテゴリー、ジャンルを死守するのは発展、進化することにより、遥かに難しい。森林を破壊した後に、人工的に植林したとしても、その山が太古からの営みを保てるとは限らないのと一緒だ。
だから、手付かずの原生林みたいなヴェテランのアーティスト、ミュージシャンは称賛されて然るべき存在なのだ。
「人類の進歩」に託けて、その代償を無視して利益を追い求める行為、開拓者魂の勘違いは問題外であるが、伝統を守りつつ、新たな息吹を感じさせる作品を創造した者、或いは全く別の価値観、伝統を生み出した者にもまた、私は賛辞を惜しまない。
視点を変えよう。ここに一人のプロレスファンがいる。彼はうだつの上がらない、落ち目のプロレス界よりも、K−1やPRIDEといった格闘技に惹かれている。だが彼は正真正銘のプロレス者である。「これはプロレスに対する裏切りではないか」と自己嫌悪に陥るのを整理して、格闘技にすら、プロレス的なものを見い出していく。
「K−1もPRIDEも、あれはプロレスだよ」と勝手に括ってしまうことで、自分はおおらかな人間だと思い込む。自己証明の復権作業だ。
視野を広げ、自分の概念を打ち破る行為は、実は世間の荒波に揉まれ、余計な苦労を背負うことではなく、頑なに自分のアイデンティティやイデオロギーに固執するということだ。
即ち、定義とは概念を打破することなのである。私はあのミュージシャンにブルーグラスを定義して欲しかった。
 

Hot Stuff

椅子に座った女の傍らに、ギターが立てかけてある。そんな絵がある。心地良い違和感をおぼえた。なぜかと戸惑い、そのギターを観察してみると、ギターが女であることに気付く。それは二人の女性の絵だったのだ。これでは駄目だ。誤解と偏見を恐れずに書くと、描かれる女は一人だけにすべきだったのだ。魅惑的な二人の女性が存在したことで私は、どぎまぎしたのだ。美人が二人いても、好みは別れるもので、私はギターの方に心を奪われてしまったのだ。そのことをもう一人の女に悟られまいとする感情が生まれた。「どうして私じゃないの」となるからだ。私は彼女を傷つけたくなかった。美人は惚れられてこそ美人なのである。

   男よ ギターを 手放すな
   抱きかかえて 忠誠を誓え
   腕を磨いて 優しく掻き鳴らせ
   男よ ギターを 手放すな
   ギターとはギターだ
   ギターとは音楽だ 詩だ 絵画だ
   すなわち 芸術のことだ
   そして
   ギターとは 女のことだ
   決して 手を抜かず その音色にのせて
   たった一人の為に 愛を歌え
 



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