写真家のアラーキーこと荒木経惟はそれを『日本劇場』といった。還暦を機に彼は日本人の顔を撮りはじめた。沖縄や大阪など日本人の顔のある街を称して『日本劇場』と彼はいっているのである。
では何故『日本劇場』は沖縄や大阪で、東京や仙台ではないのか?アラーキー曰く「東京の人はみんな仮面をつけている」からだ。仙台?仙台は最初から中途半端をウリにしている様な街である。『杜の都』なのに自然は少ないし、午後8時になると戸締りをしてしまう偽りの都会なのだ。そんなショッパイ街が沖縄や大阪に優るはずがない。別にこれはアラーキーがいったのではなく地元・仙台に住む私がいっているのだから、間違いがない。
沖縄は風土、文化が際立っているし、大阪も独自の特色があり「不細工なおばちゃんでさえ、私を見て」といってくるような街なのだ。そんな個性豊かな俳優が住むところには必然的に舞台が求められ、劇場が建つ。『日本劇場』が−。
さて、アラーキーは専ら女を撮る。男ではなく女だ。「女性にはニョサイがある」のだそうだ。私はこの言葉をラジオで耳にしたので、「ニョサイ」を漢字で書くとどうなるのか分からないのだ。きっと「ニョサイ」は「女才」であり「女彩」であり「女在」なのだと思う。女性は自分がなんなのか分かっていて存在しているのだ。もうこれでは女が女として生まれてきた時点で勝負あり。男はお手上げ状態だ。だって男は、一生、自分がなんなのか捜し歩いて生きていく動物なのだから。
写真家が被写体として魅力のある方を選択するのは当然だ。いま男達は元気がまるでない。自信喪失し、本来の表情を覆い隠してしまっている。ふつう閉ざされた世界は覗きたくなるのだが、仮面をひっぺがしてみても無表情なのだからどうしようもない。
「コンバースのスニーカー履いてもイイ?」といちいち彼女に相談しないと買物すら出来ない私がいうのも恐縮だが「オイ、男達よ。曖昧な無表情さなんかかなぐり捨てて、男にしか創りだせない汗臭い男子更衣室的な、古い掟と無秩序の同居したバチュラー・ワールドを再建しようではないか。そしてカメラ好きな彼女を見つけて、人生のハイライトとでもいうべき傑作な写真を撮ってもらいましょうや」
虚栄Gym
『雑誌は物の見方、物の考え方とそのセンスを中心に展開していくべきなのだ。あるいは、人間の生き方を考えていくマガジン。要は作る側に哲学がなかったら終わりなのだ』
『なんだ、雑誌ってもう終わっているじゃないか。読者の立場から読んでみると、なんの魅力もないことが、わかってしまったのだ』(ターザン山本)
ちょくちょく本屋に通っている私だが、読むどころか手に取ろうと思う本は殊更少ないことに気付く。チラッと表紙やタイトルを見ただけで、「なんだ、自分でモノ書いて写真撮った方がはるかに面白いよ」と思ってしまうのだ。愚かな自惚れである。
でも、相田みつをがいうんだよ「おもうだけじゃ駄目なんだな」って。じゃあやろう。こうなったら徹底的に自分の才能とセンスを信じきるしかないのだ。
いま時代が世間が人がつまらない。あらゆる事物が薄っぺらく程度が低いものになっている。私はこんな世界は拒絶する。肌に合わないのだ。
この紙キレはそんな世界への私なりの抵抗のつもりなのだ。相撲技に例えるならウッチャリ。ウッチャッて最後には私が勝つ。