2日前に震度4の地震。ちょうど遅番でベランダでタバコを吸っていたところで、部屋はテレビパソコン電気ストーブとフル稼働状態。「あー地震かあ」と悠長にしていたら、急に音が激しくなって部屋を見ると本棚の本がピョコピョコと飛び出しそうに。慌ててタバコを投げ捨て部屋に入り、本棚を押さえる。押さえながら、パソコンが気になる。「何も落ちてくるなよ..!」と祈りつつ、ようやく揺れが収まる。津波注意報が出たものの、潮位はほとんど変化無し。それですぐに興味を無くし、出掛けのシャワーを浴びたところで、横浜の友人から状況知らせメールが来ていることに気付く。顛末を送り返し、「もう1ランク上だったらめちゃくちゃだったろうな..久々に怖かったわ」と付け加える。仕事に出てみると、昼礼でこの話題。一応大地震の際の行動を再確認。2日前の出来事。
3月11日。
休みで午後から崩れる予報だったが、銀行に用事があって車を使わず、自転車で街へ。普段満杯の地上の駐輪場が運良く1台空いていて、そこへ止める。地下を上り下りせずに済み、帰りが楽。銀行行って本屋とブクオフ寄って、小腹が空いたとマックへ。
食べ終えてコーヒーを飲みつつ、さてこの後どうするかあなんて考えていたところへグラグラと。2日前以来余震がずっと続いていたから、またかとしか思わない。実際最初の数秒はそんな感じ。そこへガタガタガタッ!と急に揺れが強くなる。思わず立ち上がり、テーブルに手を付く。まだそれで、10秒くらいは耐える。もちろんそこで「これか!(これが宮城県沖地震か!ついに来たか!)」と思う。でも「こんなもんか」とも思っている。周りも座ったままの人が半分。しかし天井からのホコリか、辺りが白く煙り始める。左手で下に落としていたバッグを持ち、右手は椅子に被せていたダウンを取る。異様な雰囲気に危機を感じ取ったか、逃げ出す準備をいつの間にかしている。揺れは治まりそうで..なかなか治まらない、突然、ガガガガッ!!と、もう一段強い揺れが始まり、床が波打つ。店全体を巨人が両手で掴んで揺さぶっているような情景。むろん自分自身も同様に揺さぶられている。天井もたわんでいる。ギシギシと、嫌な金属音が聞こえる。女性の「ひいっ!」という声が聞こえる。「まさに来た!ついに来た!」そして、電気が消える。次の瞬間、壁に向かって走り出す(ほんの数メートル)。壁に手をついて足を踏ん張り、さらに10数秒。ガッシャガッシャ、ガッシャガッシャと色々な物がぶつかる音。テーブルが一斉に動いている。「まだか、まだ治まらないか!」としか考えられない。
入り口近くに人が集まり出している。それを見て人波に乗るように出口へ。まだ揺れているような感覚ではあったが、足が自然に動いた。動けたということは、治まってきていたのだろう。「うわうわうわ、来た、ついに来た!」の連呼(心の声)と共に「忘れ物無いよな?」と考えるだけの余裕はまだ残っていた。振り返ると自分の席のトレーがいつの間にか落ちていることに初めて気付く。いつ落ちたのか、まるで記憶が無い。多分天井を見ていた時か停電になった時だと思われる。14時46分の出来事。
店を出るが人が前に立ち塞がっている。辺りは店内と同じように白く煙っている。「何だ邪魔だな..」と思ってすぐに掻き分け前に出てハタと気付く。他の店からも人が大勢出てきていて..誰も中央には飛び出していない。そうだアーケードだ。慌てて天井を見上げる。よし、何も落ちていない。それでも端を歩きながら、ダウンを着込みバックを背負いつつ、アーケードを抜ける。
交差点はその瞬間歩道が青だったようで、人が交差点にあふれている。周りをグルッと見回すが、崩落は全く無い。人波に導かれるように、再びアーケードを抜ける。駅前交差点はすでに車が通っていて、信号は付いていない。歩道は亀裂が入っている箇所がある。ひたすら上を見上げつつ、隙を突いて車道を横切り、ようやく駐輪場へ。
すでに停電していることは知っていたはずなのに、駐輪場の清算機を見て愕然とする。明かりが付いていない。ということは、ロックが外れない。
家まで全然歩ける距離だから、自転車はまずいいとして、ともかく家に、職場に向かわなくては、という思いと、目の前でついに起こってしまった大災害の、中心部の様子を見てみたい。というヤジ馬根性が交錯する。あ、その前にまず安否確認だ。辺りを見回し安全地帯を探す。しかし高層ビルの立ち並ぶ場所で、考えてみれば安全は無い。それでも高架の端に陣取り、ひとまず家に掛けてみる。周りも当然ながら一斉に携帯を取り出している。つながらない。発歴を後で見たら14時52分。発生から6分ですでにつながらなくなっている。職場にかけても同様。そこで思い出す。そうか、メールの方が有効なんだ。とにかくこちらの無事を伝えておかないと落ち着いてブラブラ出来ないし。アドレスを探すと、両親のが無い。デフォルトのままでメールは使ってない(使えない)から登録していなかったのだ(Cメールの手があったのに思いつかなかった)。諦めて弟に取りあえずメールを送っておく。14時57分。メールは送られたがその間に自分の手が震えて上手く文字を打てないことに気付く。恐怖というより焦りだと思った。試験終了直前にまだ問題が残っていて、慌てて書いている時のような、震え。ようするに身内が心配なのだ。弟も工事現場の立ち合いをしている時期で、考えてみれば奴こそ無事かどうか疑わしい。
やっぱり戻ろう。好奇心に見切りを付けて、最短ルートでの帰路につく。ひたすら頭の上をキョロキョロ見ながら、「でもやっぱり被害は大したことないよなあ」と思う。何も壊れていない。専門学校からぞろぞろと人が出てきて広場へ集まっている。怪我人は見かけない。まだ、非日常の感じがしない。もちろんほとんどの人が、この時間外へ出て来たので平日昼間では想像も付かないような人出ではある。古民家の塀が崩れている。30年前の宮城県沖地震の写真で見たような画。思わず写メを取りたくなる。しかし、自重。逆に「大したことないのにハシャぐな」という考えで。「店の片付け面倒だろうなあ」などと考えながら黙々と歩く。時折、余震がある。足元がフワフワする感じで気付き、上を見ると電線がたわんでいて確信する。それに比べればやっぱり大きかったんだ、と先ほどの規模を振り返る。あ、ワンセグ。唐突に思い出し、携帯を開く。15時過ぎ、すでに内容は「大津波警報」が出ているという情報のみ。海が身近でない哀しさか、2日前と打って変わって全く興味が湧かない。それより今、ここで起きた地震の、震度だ。震度5?何言ってんだ、と思う。震度5は何度か経験しているが、あんな揺れではない(後日当時のテレビ映像をネットで見たが、どうやら余震の震度だった模様..)。何だか全てが分からなくなっている。停電している、あの揺れ、建物人的被害無し。どの程度という尺度が曖昧。でもやっぱり、新幹線の電線の一部が曲がっている。内陸地震の時の感じか。震度6クラスではあるかな。となると気になるのは、家。というより、部屋。買ったばかりの地デジテレビ、机の上のノートパソコンに落下物は無いか。その程度の心配。あ、停電だった。ワンセグなんか見てて、電池切れするじゃないか。慌てて携帯を閉じる。電話メール着信無し。まあいい、取りあえず無事なんだから事後報告で良いだろ。独り暮らしの頃から、あまり携帯を使わない性格。結局駅前で掛けた以外、発信はしないまま電池は翌朝、切れた。
家にたどり着く。部屋を見上げると、自分の部屋の窓が開いている。「天気悪いから開け放しのはずがない。ということは親が(地震後に)開けたな」と思う。どうやら家にいたらしい。ここでもやっぱり大勢の人が外へ出ている。ふと、職場の制服を着た知り合いが通りがかる。様子を聞くと、何と皆避難して、近くの小学校に行ったらしい。当人は家が近いのでそのまま帰るところだと。そこまでの重大事なのか?また、にわかに不安になる。親は無傷だろうな?まさか何かの下敷きにでも..かなり家の様子が気になる。そこで上がろうとエントランスに入ると..壁のパネルが何箇所か、剥がれ落ちていて、それを見た直後に余震。上を見上げればガラス張り。ヤバイ!慌てて外に戻る。どうしよう。さっきの知り合いの話を思い出す。そうか、小学校に避難しているかも知れないな。職場にもどうせ行かなければならないわけだから、そっちも兼ねよう。
最悪の事態から逃避するように、ひとまず小学校へ。交差点を渡るたびに、停電していることを思い出す。まだ回復しないのか。校庭の入り口付近にあっさり職場の制服の集団を見つけ、自分のグループの人たちと落ち合う。「大丈夫だった?」「怖かった〜!!」想像以上の揺れだったのはこちらと同じ。しかしその後の状況が違う。「2階より上は壊滅的被害」「自分たちも仕事を放り出してここまで避難するように言われた」「上にあるロッカーに行けないので、着替えも貴重品も取りに戻れない」etc...。そんなにひどかった?ひとまず連絡先と名前を名簿に記入し、解散ということになる。明日以降のことは電話連絡するので自宅待機のこと、なんて、今思えば悠長な通達が出る(電話がつながらない状態のまま皆電池切れで音信不通に..)。その後一回り両親の姿を探すも見えず。仕方ない、家に戻るしかないか。屋内の中央階段は怖いので、外の非常階段を昇り、ついに我が家へ。
「おーい」と呼びかけると「はーい」の声。何とすでに片づけが始まっていた。お互いの無事を確認したところで、取り急ぎ状況を説明し合う。親父は自室で石油ストーブを付けて読書中だった。揺れが始まってすぐにストーブを消したものの、どんどんひどくなったので虎の子のオーディオを押さえていた、と。テレビは耐震テープがブチ切れ、パソコンは机が前に動いて壁とすき間が出来て落下したが「気にならなかった」そう。それよりオーディオが大事なんだと分かったそうな。おふくろは居間ですぐに食器戸棚を押さえたそうだが、最終的には窓と棚にしがみ付いて身を支えるのが精一杯で、食器類が落ちるのを見ているだけだったと。いずれも声を出せない規模だったと言う。なお、最初に見上げた部屋の窓が開いている件は結局誰も手を付けていなかった。付けられるような状態ではなかった。カギを閉めていなかったのだろう、ひとりでに開いていったのだ(揺れの向きに寄ったか)。
電気はやっぱり復旧せず、ひとまず水はまだ出ているので「風呂に溜めといて」というのが私に対する最初の仕事。続いて保険申請用に被害状況をカメラに収めておく。そこでようやく自室の扉を開ける。ハハ、笑うしかない。手前右から本棚、布団、カラーボックス、テレビ、カラーボックス、ステレオ、衣装ケース、本箱..と、土台のチェストを除いて立っていたものは全て倒されている。他の部屋も同様カオス状態。ベランダからの部屋の様子を撮ったついでに一服していると..無情の吹雪が一刻、全てを覆う。貴重品が取れないからどうやって帰ろう?と途方に暮れていた同僚を思う。最悪だな..この中を徒歩帰りか。その程度の心配であった。部屋の惨状に気を取られてしまっている。まだ明るいのが幸いとばかりに、早速自室の片づけを始める。といって、寝床スペースの確保ぐらいしか出来ない。
会話はそれぞれの作業中、断続的に続く余震の度に状況確認を兼ねて。しかしこの時点での話は「揺れ」に関するもの。何しろ両親は、地震(停電)以降の情報を知らない。どこに電話しても通じないのは何度かの災害で経験済み。全員「宮城県沖地震だろう」としか考えていない。震源地がここなのだから、ここよりひどい事は無いはずだ、と。
自室の片付けの最中に、電池、豆電灯を発見。さらにタバコの景品だったLEDライトが出てくる。そしておや、ポケットテレビ!捨てずに取ってあったんだなあと、カラーボックスの奥に埋もれていたガラクタが飛び出してきてお宝に変わる。一方従来からのお宝はというと、全て外傷は無し。テレビはコードを伸ばしたまま突っ込んでいたので、落ちた時もつながったままだった。親父は対照的にコードをまとめて縛っていたので、アンテナコードが根元から切れてしまっていた。オーディオは電源コードが抜けたものの、上手く転がったらしい。同じくパソコンも衣装ケースが最初に落ちたかでその後の本や鏡(これは自室で唯一のガラス片)の直撃を免れたようだ。しかし通電するまでは何とも言えず。ひとまず保留の形でお預けとなった(後日家電は全て異常無しで一安心)。何とか寝るスペースを確保し、居間の片づけを手伝ってから自室のガラス片をガムテで拾い集めている内に、日が暮れてきた。
停電が続いている。完全に暗くなると自然作業は終了で、集まるしかない。お宝を和室に持っていき、早速テレビを付ける。「津波情報」がまず飛び込んでくる。そこで初めて「えっ!?」となる。「壊滅的被害」「行方不明者数千人」という話にゾッとなる。ようやく「宮城の地震は津波が怖い」という結論にたどり着く。そうだ、阪神大震災は都市部の直下型だったから建物の倒壊が物凄かった。今回のはマグニチュードは大きくとも、沖合いだから市内の被害はそれ程でも無い。その代わり津波の凄いのが、来る。
親父の部屋からのお宝は、石油ストーブとロウソク。そしてラジオを見つけたらしく、ただしイヤホンのみのだったので情報は親父の口から。「町ごと安否不明」「列車行方不明」「ライフライン完全ストップ」etc...話題は揺れの凄さと共に、海辺の親類の話に変わる。「あー心配だあ」「連絡つかねえ」。しかし、家が、街が流されている認識は全く無かった。何しろテレビがあまりにも小さくてしかもキレイに映らないからと、やっぱりあの規模は想像出来なかった..。家の電話はもちろん使えず、携帯も全く通じない。海沿いと、言えなくも無い弟夫婦の家、孫、そして働いていたであろう弟の安否も気に掛かる。メールは..返信が来ていない。
我々のお宝と違い、おふくろの出してきたお宝=夕食はみじめなものだった。何しろ台所が未だに侵入不能なので、お供え物のバナナとりんご、居間に出ていたせんべい、お菓子のみ。
「とにかくひどいもんだ」という「揺れ」に関する結論に至っては、地震直後の体験話に戻る。その間にも頻繁に余震が来る。一瞬押し黙り、再び話が飛び出す。誰もが饒舌になっている。ロウソクの灯りの中、そんなひと時を過ごしていたところ。おふくろの携帯が鳴る。慌てて取ると弟嫁。家家族は無事で、弟も無事事務所に戻っているという。そして家に帰りたいが渋滞がひどいのでこちらの様子を見に自転車で来るとの事。これで身内は全員無事が確認出来た。程なく弟が現れ、またひとしきり、会話が弾む。直後に送ったはずのメールは届いていなかった。当時の送られたメールが読めたのは、充電できた2日後の、さらに夜中に入ってからだった。
合間合間にタバコを吸いにベランダへ出るので、町の様子が見える。何しろ信号が止まっているから渋滞がひどい。夕方までは町へ向かう車が大混雑していたが、暗くなってからは郊外への帰宅ラッシュがハンパではない。同じ頃に車で帰路についた弟の同僚は、1時間後にわずか2kmほどの地点までしか進めていなかった。性質の悪い笑い話。全てが真っ暗な中、車のライトだけが、いや、港の方で空が赤い。火災が起きているようだ。この話はすぐにテレビの情報と一致した。水で道路が寸断されているから消火活動が出来ないと。あちこちで孤立箇所があるらしい。
ふと、今日の行動について思いが至る。銀行に用があって街へ出たが、普段は大抵車を使って郊外の図書館や古本屋を回っている。海沿いのルートは2方向。もしそこで被災していたら..まず本の山に飲まれた可能性がある。これは街でもそうで、どちらもデパートの高層階にある古本屋、本屋に留まっていたら..。翌日同じく街中のビルにいた同僚の話では、誘導され下で待機させられて、開放されたのは1時間後だったとのこと。そして屋外駐車場の車は..聞こえてくる状況から察するに、よくて浸水。悪ければ流された挙句自身は屋上避難民の一人に。後日同じルートを自転車で回ってみて、確信に至った。間違いなく車は浸水し、当日は帰って来られなかったであろう。停電で、何も情報が無くて、店の指示に従って避難をして。独断で車に乗り帰路につくという判断が出来ただろうか。海沿いといえあの辺りにまで水が来ると思えたか、どうか。部屋にいたら、仕事中だったら..と、考えても正解など出てこない。運否天賦とかいう次元では括れないことは確かだ。
10時を過ぎ、再びベランダへ出ると、さすがに渋滞は解消されたようだ。弟は車を借りて帰ると言っているし、そろそろいいんじゃないかな。港の方ではまた一つ、火の手が上がっていて、それは完全に何かが爆発していた。音は聞こえないが間欠的に炎の玉がはっきりと目視出来た。急に、えずく。タバコの煙のせいじゃない。身体が、本能の部分が恐怖を感じている。翌日の晴れ渡った空には、まるで入道雲のように巨大なドス黒い煙雲が立ち上がっていた。この火災は実に5日、続いてようやく治まった。
弟が帰り、早々に就寝準備。ライトが2つしか無いので、和室でそのまま寝ることにした両親のトイレ用に一つ。自分用に一つと振り分ける。歯を磨きたいと浴室へ。無意識に、明かりのスイッチを押し、苦笑。それなのに再び、今度は蛇口を開いてまた苦笑。ルーティンで、染み付いた行動はにわかに止められない。水はすでに夕方出なくなっていた。結局屋上の貯水槽に溜まっていた分が出ていただけだった。それでも風呂に満杯、水を確保し、停電と共に復旧した3日後まで、生活の全ての水は賄えた。
長い一日は終わった。音も光も無しに寝に付くのはいつ以来だろう。片付けて、寝床を確保したとはいえ、本の山が足元にある分、どうにも窮屈。そして続く余震に意識を覚まされる。昔の深夜バスがこんな感じだったな、と、エコノミー症候群を憂いつつ、トロトロと眠りにつく。(2日目の夜に見た北斗七星は確かにキレイだったが、やはり現代っ子としては3日後の深夜、待望の通電で音と光と情報に囲まれて、ようやっと安眠出来た。)
まだ先のことがまったく見えていない、ひとまずの無事を噛み締めつつの震災当日であった。
4月7日。
生活がだいたい元通りになって、いつものように「雨トーク」を観ながら布団の中でトロトロと。悦楽のひとときが一瞬にして緊張に変わる。ふと、目を開けると窓際に掛けているジャンパー類が一斉に揺れ動いている。これはデカイ!と思った瞬間に上半身だけ起きて、テレビが載ったチェストを押さえる。テレビは全く変わらず放送が続いている。電気は消していたので他のところの様子が分からなかったし、その余裕も無かった。ただ今回は寝入りばなということもあってか、「もう勘弁してくれよ!」という半ギレの感情。ユッサユッサと、大揺れが続く。周りに取りあえず積んであった本や書類が流れ落ちてくるのにようやく気付く。テレビは変わらず写っている。もちろん内容は全く頭に入って来ない。視線がようやく周りを向く。前回眺めた様子と同様に、衣装ケースが倒れ、オーディオが落ち..しかし今回は、本棚類が無い。すでに前回の地震で底板が壊れ、解体してしまっていた。カラーボックスは横倒しにしてゴミ箱同然の使い方にしている。従って前回と違い部屋の中心に私が居るものの、倒れ掛かってくるものが無い。一月前は街中にいて、身の危険を感じつつの時間だったが、今回は身の危険は感じず、ただひたすらうんざりしていた。物が水のように流れ落ち、撹拌されるようにユッサユッサと。テレビが映し出す爆笑トークと薄明かりと揺さぶられている室内。実にシュールな1分ほどだった。
ようやく揺れが治まる。部屋を出て家族の安否を確認しようとするが..本の山が布団に絡まって、足元がふらつく。同じく本が散らばっていて、ドアが開かない。どうせ本だしと思い返してグッと踏み込み、ひとまず電気を付ける。一見大惨状が広がる。ドア付近の本を自分が今居た場所に放り出しつつ、隣の親父に声を掛ける。親父もまた半ギレ状態。「あーあ、あーあー!」一月前の惨状に逆戻りしたことに怒りを感じている。部屋を出てすかさず抜かりなく風呂に水を流してから、居間にたどり着く。つい先日ようやく収めた食器類が再び散乱し..ほぼ砕け散っている。台所もまた、今度は揺れの向きが180度変わっていて、奥にあったレンジ台が手前に倒れ込んできている。今回は電気が付いているのでテレビが観られる。震度6強の速報に唖然となる。前回と同じじゃないか!何が余震なのか!?津波警報に気を揉みつつ、前回同様ガラス片の撤去から始めていると、弟から早速連絡が入る。震災関連で高速のSAの夜間工事を見ていて、そろそろ帰れるはずだったとのこと。とにかく無事なら良しと、お互い声高に言い合って切る。ちょっと、前回と違い怒気が交じっている。誰に対してではなく、一向に治まってくれない地球に対して。あまりにも理不尽な自然災害に対して。
イライラするのでひとまず一服したい欲求が高まる。部屋へ戻ると、タバコがどこへいったか分からない。本と書類と、オーディオ、今回は揺れの向きの違いかプリンターまで落ちてしまっている。乱暴に掻き分けるも出てこず、買い置きのしまってある引き出しも、物が邪魔をして開けられない。携帯も、テレビのリモコンも埋まってしまっている。埒が明かず窓際からチマチマとスペースを作り(片付け)始めると、今回はガラス類が全く無かったので、意外とスムーズに元通りに、なる。わずか15分ほど。本や書類は積んでしまえばあっという間。そして、あっ!パソコンだ!ひとまず外傷無くおそらく今回も大丈夫だろう。保留してようやく見つけたタバコに火を付け、ベランダへ。
電気が付いているせいか、外へ飛び出している人などは見かけられない。早くもヘリの飛ぶ音、緊急車両のサイレン音が響いている。そして、火災だ。火は見えないが隣町から煙が立ち昇っている。また一からやり直しなのか..暗澹たる気分に再びなる。少し、感情は落ち着いて、というかブルーに変わる。
津波はどうやら来なかったようなので、ちょっとホッとする。経験してしまった身としてはもはや、震度6クラスの揺れだけでどうにかなるとは考えていない。とにかく津波さえ無ければ皆大丈夫だろうと。
再び居間に戻る途中で、そういや風呂は溜まったかなと覗けばいつの間にか水が止まってしまっている。半分も入っていなかった。今回は屋上貯水槽はあっという間に空になってしまった模様(実は通水管の破断による漏水で空になったとは翌日判明した。夕方には復旧)。ただやっぱり電気が通じているから、切迫度が違う。「どうにかなるさ」という気になれる。報道もあっさり2時台には通常に戻る。地元ラジオではナイナイのオールナイトの予定が当然ながら地震情報に変わっており、ネットのラジコで聞こうかと一瞬、考えたものの、やっぱり片付けながら特別番組を聞いていた。好きな番組というのはあくまで娯楽、なんである。
明かりが付いているので夜通しの作業も可能だったが、どうにも眠たくなってきて「悪いけどお先」と3時過ぎに布団の中へ。個人的には部屋の本格的な片付けをズルズルと先延ばしにしていたのが幸いし、崩れたものをまた積み直すという作業で目処が付いた。皮肉にも片付いたはずの居間、台所からは結局朝まで掃除機を動かす音が聞こえていた..。
これがそのまま、近隣の様子にも現れた。
ライフラインが揃っていれば、飲食店は食器の片付けだけで済むから通常営業。その代わり物品がようやく充実し始めたスーパーコンビニが..再び商品の崩落で販売出来ず。そしてダメージを受けていた建物、土地、道路がさらに深刻な状況に。鉄道もバスも、再び軒並み運休してしまった。
ただこの、5年に一度くらいでどこかで起きている規模の地震はすでに「大したことのない」レベルとしか捉えられなくなっている。そうとでも思わなければ、緊張に耐えられないとも、言える。
4月11日。大震災から1ヵ月後の夕方には福島で群発的な地震。ひたすら深夜まで微震が続く。震度2〜3程度の揺れからの、次の大揺れが来るのではないかという不安に常に脅かされている。
こんな感じで気が付けば、東日本大震災から1ヶ月が過ぎ、ようやくこの稿をまとめ始めている。
震災から様々な非日常的な出来事が未だに続いているものの、特に地震の最中、直後に限って記しておくことにした。あの瞬間、私は「知った」のだから。絶対覚えておくべき体験だと思う。