百見は一廻に如かず

(初出:第213号 15.3.21)


「国連の防災世界会議」の開催、というのが4年前の当時何となく目標に思えたのです。世界中の人に『復興』した姿を見せられると。オリムピックのような賑わいの中でおもてなししようと。具体的なイメージは全く無かったけれど、目指すべきはそこと思っていたのです。

しかし私はこの間に寧ろ縁遠い内陸部へと職場を移り、市内中心部はとうの昔に日常を取り戻している。今年もまた、震災の日を迎え形ばかりの黙とうを捧げつつ、薄れていく記憶と関わりの薄さに忸怩たる思いを抱いていたところへ、丁度間に合った形の仙台城址線(隅櫓から青葉城へ至る道路)復旧のニュース。震災10日後、あの時市内を一巡りして、進めなかった道を回ってみようと思い立つ。何か思い至るところがあるのではないかと期待しつつ。
隅櫓到着。崩れていた対面の白壁も修復され、入り口には真新しい案内板が輝く。何と遊歩道まで整備されている。急坂をトロトロと、原付をフルスロットルで上がっていくと、そびえ立つ石垣に遭遇。早速停めパチリ。鏡のように揃えられ、角もキレキレの石垣は..崩れた石の一つ一つを検証し、パズルのように積み直していったという4年越しの復旧作業の結果、遊歩道の整備もあってか復元というよりまるきりリニューアルオープン。往時を思い起こさせる気配を感じさせぬまま、さらに進んでいくとあっさり青葉城、到着。え!?こんな距離だった?
800mといえば坂道とはいえ車で2〜3分、言われてみればそうなのだが、木々生い茂るなか、苔むした石垣を眺めつつの古色蒼然とした山道だった記憶ではもっと長かったような。学生の頃だから20数年前、美化されたのでしょうか。
いずれにせよ拍子抜けしたので、100円の浄財(駐車料徴収..)を払い政宗公と対面。振り返り市内を眺める。「防災会議」のメイン会場となる国際センターには展示棟も出来、開通間近の地下鉄駅も隣接。全てが新しく..震災と結びつく要素が何もない。未だ手つかずの土地がある沿岸部に比べ、この景色は復興しましたと誇れる場所なのだろうかと困惑する。道路挟んで更地が広がる追廻地区、ここは戦後の名残だ..。
数年来調査中だった本丸大広間跡の礎石が復元されていたのは観光の点から高評価。この上に天守閣がそびえていたと想像するのが容易になった。資料館でCGを見ただけではスケールが見えない。内部の結構は瑞巌寺の大広間を見ていれば補完出来る。城址だからシンボルが無いので面白みを感じない場所だったのだが、これでかつての威容を感じ取ることの出来る場所に自分の中で格上げされた。
しかしますます震災が遠い昔に思えたまま、すごすごと帰路につく。

4年ぶりの市内巡遊は実に物足りず。週末沿岸部を回ることにする。一関から気仙沼へ至り、海沿いをひたすら南下。雨が降り出して女川〜野蒜間は通らず仕舞いだったが、映像で繰り返し見た被災地の現状というのを初めて目の当たりにする。
往時津波に覆われた岸壁に立つことが出来る、すぐそばには物産センターも商店街もある、しかし生活は無い。全て仮である。峠と港が延々と続く道は学生の頃何度と訪れた伊豆を彷彿とさせる。かつては全く同じ風景だっただろうが..峠を上がりきると程なく出てくる「津波到達地点 ここから」の看板。下って港があり、また峠に入っていくと「ここまで」の看板。まさに集落ことごとくが津波に遭った事実を告げている。平地の広がる中心地だった場所では至るところで土が盛られかさ上げが始まり、新しい工場が散在する。振り返り高台を見上げればようやく昔ながらの民家が立ち並ぶ。極端に言えばわずか数十センチの違いでそのままの姿と一掃された対比の悲しさ。また、小さな入り江では真新しい港があるばかりで、周囲に建物が無い。この違和感を覚える景色が気仙沼以北青森まで、仙台港以南福島まで(千葉までか!?)、延々と続いていることを思うと、記憶の風化が言われていることがあまりに他人事すぎる。とはいえ、私も見事に勘違いしていたと思い至る。
同じ被災者ながら、私の見ていた震災後4年の風景は全く変わらない中にポツポツと新しい建物が現れていった程度のもの。仙台城址から観る風景に違いを感じたのは20〜30年経って見られた変化に対するもので、時代の移り変わりに過ぎない。そこに気付かず、私は『復興』を「復旧」のイメージで見ていた。大部分を失った土地は新しい街を「興す」わけで、震災前と全く同じ風景が戻るのを目指しては悲劇を繰り返すだけだ。つまり途上とはいえ復興が進んでいる現状に齟齬を感じるのは間違いだった。

そんな風に考え方が徐々に切り替わっていく中で、南三陸(志津川)の防災庁舎を見る。津波の脅威を実感出来る建物ではある。しかし周りはすでに高さ5m超の盛土で覆われ始めている。あくまで津波を経験していない者の一意見であるが、この状況下で残すべきものでは無いように感じた。我々のような者を呼び込み、伝えるためのシンボリックさは当然ある。しかし場所があまりに中心すぎる。遺跡のようにそのままに半ば埋めてしまう訳にはいかないだろうし、かさ上げした土地に移したのではそれこそお飾りになってしまう。条件が揃っていない。その代わり、中心部なのだから「伝承館」を作って欲しい。石巻の道の駅「上品の郷」で小規模なパネル展示を見たが、それだけでも十分見応えがあった。映像やデータ、ジオラマや震災後の道のりまで詳細に残し、展示してくれれば目の当たりにしなくとも想像することが出来る。そこにいけば当時の記録に没頭出来る、そんな施設があればと思う。

そして「防災」が「減災」へと方向性を改められたのも納得出来た。立ち向かうだけではなく、一歩引いて凌ぐ方策を考える。この一歩は経験に基づいた説得力がある。結局何も関わることが出来なかった「防災会議」は相当のすったもんだがあった挙句、具体的な数値を示さず現状より「減らす」というだけの目標を定めて閉会したが、極めて現実的と思った。ハードルを下げてでも取り組み始めるのが先決であろう。一つの星に暮らしているという認識に、少し近づいたはずだ。

震災後4年経って、ようやく『復興』と「減災」の意味を実感できた、これでも一応被災者です。それも数多ある震災関連の資料に触れ続けてきた結果ではなく、やっと現場を訪れて気付いたという..。未経験者にお披露目するなんて身分では無く、私自身がまるで知っていなかった、4年前のイメージはあまりに安直すぎていたと思う。元通りではなく新たな街づくりですから10年20年の一大事業。だからこそ今さらの遠慮は不要。今からでも、被災地は廻って見るべきところです。


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