★雄大な自然と四季。温かく優しい人々。お盆の墓参りや祭りのお囃子。『阿弥陀堂だより』は失われつつある日本の「古き良き――」を地で行く映画である。映画が終わったときわたしは涙が乾くのを待ち、ほかの客が腰をあげるのをゆっくりと目の端にとらえつつ、余韻に浸り劇場をあとにするはずだった。予定では・・・。
★寺尾聡(夫)は売れない作家。樋口可南子(妻)は優秀だがパニック障害をもつ医者。二人は夫の故郷である長野県の山間の町に、人生の最スタートをはかるべく都会から移り住む。そこには阿弥陀堂に住む婆ちゃんや喉を患い言葉を話せないでいる娘、末期癌に侵された人生の師がおり、それら人々との交流や朴訥な暮らしを通じて、夫婦は次第に癒され活力を取り戻していくというストーリー。
★おそらくわたしが悪いのだ。世をすねて、捻くれたものの見方しか出来なくなった。まず、作家の夫だ。彼は新人賞を獲ってから新作を一冊も発表していない駄目作家である。引っ越してきてから部屋の隅々を観察するのだが、パソコンやFAXは見当たらない。ようやく筆をとったと思ったら、婆ちゃんへの質問を箇条書きにしようとしているところだった(結局それも書かない)。次に医者の妻。まぁ、いままで稼いできたのだろうから貯えはあるのだろう。彼女の貯金が生命線である。それしかない。さもなきゃ何ヶ月も他人の世話をやきつつ、将来への不安も口にせず、のほほんと田舎暮らしを満喫できるはずもない。野菜や米には事欠かない状況だとしてもだ。夫はあまりにもいい人過ぎる。妻にも近所の人たちにも。妻はパニック障害があるため、町の診療所へ通うのは月・水・金のそれも午前中のみである。幾ら貰えるのや? このあたりの現実味の無さが映画をただの浪漫飛行に貶めた。
★もうひとついえば、夕方遊び終えたこども達が、「夕焼け小焼け」の大合唱で家路にもどるシーン・・・。例ののほほん夫妻は西日に照らされ、手を振り振りお見送りだ。それは美しい。だが、だがである。きょうび「夕焼け小焼け」って・・・。歌わないだろう。あまりにも田舎の子供を舐めてるよ監督は。あそこはモーニング娘の「ニーポンの未来は、ウォゥ、ウォゥ、ウォゥ、ウォゥ」で良かったはずだ。でなければ「大きなノッポの古時計」でもいいさ。テレビぐらいあんだぞ田舎にも。「赤とんぼ」それではあまりにも綺麗すぎるんじゃないか。
★90歳をとっくにすぎた婆ちゃんは最後まで健在で、喉を患い肺炎も悪化させた娘は間もなく快方に向かう。癌で無くなった人生の師は、結局いのち尽きるが、一度も苦しまず綺麗過ぎる死を死んでいった。夫は(最後までこの男は作家として再起するのか、田舎で農家としてやっていくのか定かでなかったが)生気は取り戻したようだし、妻も心身ともに鋭気が漲り、フルタイムの職場復帰を決意するに至る。これでは出来すぎなんですよお〜ぉぉぉ。
★自然っていうのは眺めてるだけでも癒されるんだけど、ハイキングや温泉客なのかい彼等は。住んでいる、そこで生活しているのですぞ。自然の脅威、厳しさも撮らんかい。全部が全部ハッピーエンド(といっても途中で揉め事があるわけではない)にするならば、若き医師であるジュン(俳優の吉岡くんです。あえてジュンと呼ばせていただく)と喉の病気の娘ッこ、このふたりの縁もむすばんかい。なんのためにジュンが出てきとるんだ。アホが。キキキーッ。
★いい映画だった。三度泣いたからね。あえて文句いったまでで、ほんといい映画なのよ。与えられたものを〜与えられたまんまいただけば良いのです。
★両親は才色兼備で彼は敷かれたレールを一直線。エリート大学に入学して、秋休みには頼まれもしないのにアパラチア山脈のジョン・ミューア・トレイルなどを一月ほどほっつき歩き、いっぱしの苦労も体験してきました。さぁ来春からは外務省へ勤務ですって人(あるいはだった人)が観ればいいんでない。
★どんなに人生の日向を描いても、そこに影(陰)が感じられなかったら邦画じゃない、芸術じゃない。これはポップス映画。決してオルタティブじゃあない。「日本人教」向けに撮られた宗教映画です。「雨にも負けず風にも負けず」なんて宮沢賢治の言葉までつかっておいて、雨もふらない、風も吹かないないんじゃねぇ。巷でくばられてるキリスト教の小冊子にでさえ、地獄は描かれてるのに・・・。