ざっくり日本史                     矢島 順

(初出:第219号 15.9.20)


今回は日本史の話をするのだが、最初から脱線。まず映画「清州会議」を激賞する。
公開当時久々に映画館で観たいなあと思っていて機会に恵まれず、TVで演っていたのをキッチリ録画して、それで安心してずっと積んでいたのを、半年以上経て先日やっと、何の予定も立たなかった連休の夜に観て大満足。「武士の腹芸」というのをコメディの括り方にして人口に膾炙させた手法は見事というしかない。読書芸人の足元にも及ばないしがない活字中毒者であるが、敬愛するコースケ先生もこれを観て貶すはずはない、と思う。それほどまで、一所懸命の戦国武士の、戦場ではないところでの駆け引きの妙、真剣な芝居(=腹芸)を当世流に見せてくれたと思う。
ただちょっと、何度でも観たいと思わせる完璧さは無かった。最後の5分、信雄のエピローグから先は全く要らなかった。良くも悪くもお芝居だった、という事で1度観る分には最高のエンタテイメント作品である。

さて、本題。新居で聞いた記憶なので10年と経ってはおるまいが、相当前に佳那氏から質問を受けた。
『〜伊豆守とか、戦国武将がよう自分の領地でも無い国の名前を名乗っちょるじゃろ。あれは何なんかの。わしが思うにいずれ天下統一になった暁にはここをくれという決意表明みたいなもんじゃないんか?』
私は以前読んだ、海音寺潮五郎の歴史エッセイにまさにその辺りを取り上げた一節があったことまでは思い出したが、内容まで覚えておらず。ともかく「あんなものはいい加減なもんで云々」といったニュアンスだった記憶なのでひとまず『いや、そうではない』とは即答したものの、明確に答えることが出来なかった。
すでに当の本人は忘却の彼方であろうやり取りであるが、私はそれ以来、彼から貰った宿題として何となく心に留めていた。
とはいえ当時、すでに時代物から戦記物に読書は遍歴しつつあり、手元にはすでに無く、探そうにも図書館で借りたものか古本屋経由かも定かでなく、しかもわざわざ読み返すほどの熱意も無かったのであっという間に年数だけが過ぎて行っていた。無無無。
今回久しぶりに日本史、時代物に興味が湧いたこともあり、何となく漁ってみたところ、中世史を扱ったどこぞの研究論文集にそれらしき項目を発見。
『小田原北条氏に与した某城の何某が、官位を求める書状を京のしかるべき筋に送り、認められたかどうかの返信は見つかっていないものの、それ以降その官職名を名乗っていた』『また別の時期は他の官職名を名乗っており、後年はその官職名を再び名乗っていたようだ』
パラ読みでそんな内容を把握したのみで、甚だぼんやりとした話であるが、『どうやら朝廷を介した任官制度は中世においても大原則のようである』というところまでは分かった。
大筋が見えたのでWEBでさらに調べていくと、当時ははっきりと記したページを見つけられなかったのだが、いつの間にか出揃っている。まさに同じ質問が、YAHOO!知恵袋にも寄せられている。そこで私なりにかなりざっくりであるがまとめてみる。オホン。(注)


根っこにあるのは朝廷における官位制度がその人の身分を表す機能として残っていた、ということになる。序列を表す位階(正一位〜少初位下)と、相当する官職で官位ね。
〜守というのは大国で従四位上、下国で従六位下の身分の人が基本的には任命される官職で、裏を返せば〜守であればその位の身分であるとも言える事になる。
昇進を願うのは人の常だから、武家の棟梁として幕府は彼らの叙位任官を統制する権力を握っていた。
ところが戦国時代というのは管理する幕府が機能していない無法状態だから、前述したとおり直接朝廷と交渉する者、果ては自称する者も現われる。

諸々の好例として、織田信長を挙げる。
16歳で上総介を自称。
33歳で尾張守といずれも自称で名乗っている。
勿論その後は正式に官位を受けて従一位、太政大臣まで上り詰めている。
元服後に上総介を名乗りだしたようだが、親は金銭援助で官職を得たのに対し、信長は上洛するまでこの手のお願いをしなかった辺り、人柄が見えますな。しかしそれでも興味が無いわけではない。
尾張守を自称したのは分かり易く、この土地の支配の正当性を示す為である。
足利将軍を援けて上洛した35歳に正式に従五位下、弾正少忠から始まり、
42歳で従三位、権大納言となり、右近衛大将を兼任。足利将軍が当時近衛中将なので官職としては上司の状態に。まあ、現実に即したポストとも言えますが。
44歳には従二位、右大臣ですよ。織田右府という名乗りも聞き覚えあろうはずですが、つまりこの頃からの呼ばれ方になります。
翌年正二位となり、生きている頃の最高位に達する。先に言った従一位と太政大臣は本能寺の変後に送られた追贈。しかし官職である右大臣、右近衛大将をこの年辞退。以後は亡くなるまで散位と言って官職無しの状態に。官位に興味が無くなったのか、トップの地位しか要らないというメッセージなのか。実際トップ3である、太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに就かせようという動きもあった。

同じように伊達政宗についても、従五位下、美作守から始まり、従四位下には越前守、右近衛権少将を兼任。陸奥守を名乗るのは徳川政権の固まりつつある1608年以降になる。最盛期150万石に相当するまで領土を広げた政宗にとっては、本領安堵の名を必要としていなかったようで、朝廷が任官するままに名乗っている。さらに苗字も、時の権力者から名乗りを許される栄誉があり、ある時期の政宗については羽柴越前守で通用し、ある時期は松平陸奥守となる。最終的には権中納言に昇ったので、仙台黄門も政宗の通り名である。

このように、同一人物であっても数々の官職を歴任しているので単純に同時代の武将が同じ伊豆守を名乗っていたと考えるのは間違い。さらに欲しい国の地名を名乗っていたというのも違うようですが。

戦国時代の官途書出と呼ばれる恩賞の一つが実際にダブりや齟齬を産んだようなのです。元々は南北朝時代に、各々が勝った時に官位を斡旋することを約束した書状のことなので、「いずれはこのポストに就けるようにしてやる」といった効力があったのですが、取り次ぐ幕府が機能していない状態では絵に描いた餅。そこで「領内では」名乗って良しという認可状に変化しています。
佳那氏が推測していた、『いずれこの国が欲しいという決意表明』というのも間違っていない。何しろ臣下が希望して名乗るパターンがあるわけですから。「殿、私は暖かい土地がいいですな」「よしよし、ではそちは日向守だな」なんて牧歌的なやり取りがあったかも知れない。しかしそれだけではない。類推を、幾つか挙げてみます。
主君の位に応じた地位を求める。例えば正式に従四位下、越前守を叙任されている殿様がいれば、その重臣なら従五位下、美作守辺りを名乗るのがふさわしい。
先祖由来の地位を求める。私の祖先は藤原何某で、その方の任じられていた備中守を名乗りたい。
逆に主君の家系で名乗っていた官職名は謀反簒奪の疑いを掛けられるから避ける、等々。

このように正式な任官であっても名のみのポストであった上に自称が通用する時代であったから、後年の我々が混乱するのも道理である。
ただいずれにせよ、〜守を名乗ることでその土地の支配権を主張するだけでなく、相応の身分にいることを示している場合もある。その辺りは記憶通り『いい加減なもので』、野望の現われとまで考えなくて良さそうである。

(参考)筑前守の変遷
大内義隆(実際に支配)
三好長慶(この頃は秋月氏が筑前・筑後・豊前を支配)
羽柴秀吉(官途書出であった可能性あり)
前田利家(秀吉から譲り受けたか)
江戸時代に入り、筑前福岡藩黒田家の領土に。
黒田長政(初代藩主)
黒田忠之(第2代藩主)
第3代〜第5代は名乗らず。その間に
前田利常(加賀藩第3代藩主)
前田光高(第4代藩主)
この辺りは利家を意識したか。さらに下ると
秋月種任(日向高鍋藩第9代藩主)
これも先祖由来の名前を希望した感じ。

(注)以下の話はほぼウィキペディアの記事に基づいている。本文を読んでもピンとこなかった場合は、「武家官位」の項目からあれこれと、興味の赴くままに漁ってみると良い。


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