突然ですが「戯迷」って言葉ご存じですか?
これは中国の成語なのでピンと来ないのも無理ありません。「熱烈的な京劇ファン」という意味。「迷」という字がハマってる、って感じを良く現しています。知り合いがその「戯迷」に、どうやらなったようなのです。会社員にして昨年来週2回のペースで教室に通っているとのこと。
私は、と言えばここ10年ほど京劇には注目していまして、観た演目は20くらいになります。たま〜にBSで山川静夫が招待してくれるし、図書館の視聴覚資料にもポツポツあるんです。ただ実際には、観たことがない。近くで演っているのを聞いても仕事で行けなかったりと縁が無い。ようやく先日、その「戯迷」から公演があるんだけど観に行ってみる?とお誘いがあり、機会が巡ってきました。ただチケット代(前売り)4500円は相場の約半値。果たして本物を観られるのかどうか、私も「戯迷」になってしまうのかどうか。当日の模様をお聞き下さい。
北京から劇団を招いての日本公演、とは違い在日の京劇経験者による普及を目的とした公演である、と。チケ代の安さの理由が分かりました。場所も国立劇場ならぬ区民センター。待ち合わせが双方の中間地点だったのに、我々(私と友人)は間違って直接現地に行ってしまい、時間潰しのお茶の席で判明した事実。少々期待外れか..というとさにあらず。近くの会場裏口から、聴こえてくるのは二胡の音色と鉦の音。何と楽隊が生で演奏するとのこと。
個人的に京劇の音楽が好きで、以前から輸入販売のショップなど覗いてはCDが出ていないものかと探しているくらい。しかし音源というものは無く、唯一世界音楽全集で出されている一枚を所有しているのみ。今回がそれが生で聞ける!否が応でも期待は高まります。
やっと開場となり、早速会場へ。400人は収容出来る大ホール、お客の入りは半数ほど。それでも平日というのに200人は入っている。何ともうらやましい限り(蛇足)。京劇はつまり、中国の芝居なので台詞は勿論中国語。しかも古語が使われるそうなのですが何にせよ分かるはずがない。映像と違い字幕も無し、歌舞伎のような音声ガイドが果たして付くのかしらん?と懸念していたら、今はプロジェクターという便利なものがある。陣内くんのようにパソコンから映像(字幕)をプロジェクターに写すんですな。あ、これはもはや常識当り前ですか。そんなわけで台詞は舞台袖の縦型プロジェクターに日本語で出ます。
開演までパンフレットを読む。やはりこの劇団は日本で京劇を知ってもらう為に結成されたのだそう。なので日本人も参加しているのだ。うーん、そうなると本物と言うには..しかしすでに何十回と公演は行われており、過去の演目を見れば京劇の代名詞「孫悟空」、映画の題材にもなった「覇王別姫」、おお、大好きな「三岔口」まで演っていたとは!いずれも立ち回りメインの武劇であり、してみると雰囲気はともかくとして、好みの内容が観られそうです。
ついに開演。今回の演目はオリジナルの現代劇。劇中劇で京劇の演目を行う形なのですが京劇役者だった男が主人公なので最初からすでに京劇の扮装をしております。時にいかにも中国人らしい?片言な日本語も交えたやり取りは、正直あまり深い筋書きではない。まあ、元々京劇はそれほど複雑な話はありません。例えばまず始まった演目は「戦馬超」。三国志の話ですが張飛と馬超が一日中戦って決着が付かず、それを見ていた劉備が馬超を褒め称え配下に迎え入れるという..まあ何ともあっけらかんとした戦の話。しかしこれが、半端ではない。
歌舞伎の隈取りのような強烈なメイクで暴れん坊を現している張飛と、対照的に紅顔で勇ましい青年をイメージする馬超。お互い背中には4本の旗を差していますがこれは隊を率いる将軍を現しているとともに大人数での乱戦も示しています。なので数度立ち回っては台詞のやり取りが入り、という展開。槍と槍との立ち回りも、見得の切り合いで拍手を止められない。ところで、中国の興行(京劇に限らず、武術大会などでも)では掛け声に「好(ハオ)!」と入れます。「いいぞ!」といったお囃しの類ですがタイミングが実に難しい。というのも見得きりが一度で決まらず、二度、三度目にようやく止まる(決まる)場合が多いのです。片や一度で決まる時もあり、拍手すらも一瞬躊躇してしまう、まして声など掛けてもう一動作始まったら..(恥)と。どうも本公演のお客さん、皆同じ思いを抱いているようで、拍手も遠慮がち、声掛けもまばらとなかなか盛り上がって参りません。これが10分程で一段落し、将軍たちは一旦退場。やれやれ、と思っていたら再び今度は夜の戦いへ。
今度はまさしく一騎討ちといって良いのだろう、装飾品も外し簡素な衣裳で、しかし立ち回りの激しさは先程の比ではなく。しかも延々と続きます。結局またも10分ほど二人で立ち回った挙げ句、やっと見得。これは誰もが拍手が止まらず、掛け声も盛んに聞かれました。20分もの連続した立ち回りを見せつつ汗一つ見えないのはメイクの効果でしょうが、最後まで足先のもつれはありませんでした。恐ろしい功夫(鍛練)です!途中休憩で戯迷に聞いたところでは槍さばきも見事の一言に尽きる、との事。私の見慣れている殺陣芝居とは違い、ダンスにも似た立ち回りなのでこの時はまだ実感出来ませんでしたが、第二幕で登場する立ち回りで度胆を抜かれてしまうのであります。
変わらず現代パートの部分は今一つ..といった流れで、再び劇中劇=京劇部分へ。今度の演目は「九竜杯」。暴れん坊の隈取りあり、紅顔の青年もいて..鼻を中心に白く三角に塗られた、いわゆる道化役も登場。これがつまりボケ役=お調子者で、動きもコミカル。芝居部分でも高さ3メートルほどからキリキリ(後ろ宙返り)を見せたりと圧倒的な迫力!そしてクライマックス、5人が絡んでの大立ち回りは..。馴染みのある剣殺陣があり、スレスレで振り回される緊張感、物凄い早さでテンポ良く繰り広げられる乱戦を楽隊が更に盛り上げます。底の厚い靴、恰幅を良く見せる大振りな衣装、頭上に長い羽を泳がせたり(騎馬を現す)の装飾品で彩られた役者はやや狭い舞台上にあってスクリーンで映画を見るような非現実的な巨人に見えます。舞い、打ち、極める。まさに私の好きな京劇を存分に見せつけてくれたのでした。
現代劇にまとめたことで、京劇の演目を分かりやすく見せようとしたのかも知れません。しかし個人的には解説も何も無くても、京劇の部分だけで十二分に熱狂出来ました。舞台横で生演奏が入り、独特の節回しで唄われる台詞や唄。凝りに凝ったメイク、衣裳、そしてあの立ち回り..。まさしく本物と言って間違い無い彼らが私を京劇の世界に導いてくれたのです。ただ、安いなりの通俗さというか..大衆演劇に気位は要らないとはいえ、その気安さが逆に異世界への没入を阻んでいるような気はしました(とはいえ安いのは助成金が出ているからで、自力でやればやはり5桁のお代が必要であろう)。
もちろん次回の公演も万障繰り合わせて伺いたいところ。そして高嶺の花、来日公演の方も何とか観に行きたいと..「戯迷」への道の第一歩を、どうやら踏み出してしまったようです。
(補足)
「孫悟空」‥「西遊記」は孫悟空がメインの回はほとんど全てが演目化されています。猿というキャラクターの持つ、コミカルかつアクロバットな動きはまさに京劇の代名詞。
「覇王別姫」‥「四面楚歌」の故事。孤立無援の項羽を勇気づけようと、愛妾虞美人が剣舞を披露。しかしそれは、足手纏いにならない為の、自刃を狙った哀しい策略であった..。
「三岔口(サンチャコウ)」‥無実の罪を着せられて流罪となった将軍。救出せんと元部下が護送中泊まった宿に潜入する。宿の主人も実は同じ事を考えていたのだが、暗闇の中でお互いを暗殺者と誤解しあって..。暗中の立ち回りが特徴的な演目。
「戦馬超」‥本編では単純な、としたが無論裏の事情はある。馬超は西涼という土地を治めていた馬騰(ばとう)の息子。この馬騰は曹操に処刑されたので復讐に燃えている。「槍の孟起(馬超の字(あざな))」と言われる武勇で曹操に挑むも敗れ、匿われていた先で劉備との戦いを引き受けたのである。そもそも劉備憎しというわけでは無かったのですんなり配下となった次第。ちなみに三国志演義では孔明が計略を用いて後日に降服させたとなっている。この辺り京劇では演出で単純化したことになるか。
「九竜杯」‥きちんと文献で調べようと思ったのですがタイムオーバー。つまりそれほど、珍しく複雑な話。従ってボンヤリとだけ。清朝2代目、康煕帝の頃のお話。義賊が皇帝の宝物、九竜杯を盗んだ。それとは別に、宮廷警備隊の隊長が皇帝の身を守ったお礼に黄色い服をもらう。しかし黄色は皇帝の象徴で、下々の者が簡単に着られるわけが無い。つまりこの黄色い服、着たければもう一働きしろ。盗まれた九竜杯を取り戻せと。途方も無い命令。しかし手掛かりが、無いこともない。義賊が盗んだらしいという噂がある。そこで皇帝からともかく褒美をもらったと、宴会を開き、それとなく当人に聞き込みを入れる。ちなみに賊といっても当時は金のある身が貴族だったご時世。武力があって捕まえられなければ大手を振って世の中を渡っている。この義賊も従って招待されていて、ついうっかりと白状してしまう。やっぱりそうか、さあ返せ!、としかしすでになくしてしまったとのこと。参加者の一人がそういえば..とある無頼ものの家で見た覚えがあると。返してもらってきましょうと調子ものが行ってみたものの、返してくれるはずもなく。そこでやっぱり義賊の登場。再び盗み返してみせる。怒った無頼ものが手下とともに襲ってくる。お調子ものも、隊長も加わっての大乱闘。結果拳で語る好漢同士。全員丸く治まり無事杯は戻りましたとさ。という..複雑なのに明朗な筋書きなのでした。